「教育をする」とは何か?

教師の年齢層が高くなってくると、多くの教師はこれまでの経験や実践で教育を語るようになります。それはとてもそつがなく、効率がよく、スムーズな「方法」です。しかし、そこに子どもの成長する隙間はあるのでしょうか?
 
例えば「係活動」高学年になっても 
保健係→健康観察簿を職員室に届ける係
整列係→前に立って整列させる
黒板係、電気係、黒板係、窓係・・・こんなものがあふれかえっています。
確かに黒板はきれいになって、観察簿は忘れなく、電気は切り忘れることなく、窓の換気はばっちりの教室になることでしょう。教室の環境としてはバッチリです。
 
でもこれが子どもの成長と何か関係あるのでしょうか?
同様に行事、委員会活動も子どもの成長を考えての活動なのか、それとも学校運営上効率のよい方法を子どもたちに作業させたいのかでその学校の態が分かります。
 
これは授業の研究なども同じです。我々の授業の研究なのか、それとも子どもの成長を考えて行うものなのか、ちょっとした違いなのだけど、その取り組みも、経過も、到着点も全く異なります。そこを見失うとそれはただの作業になっていきます。子どもの成長や変化を皆で認め合い、確かめ合い、そしてその成長をみんなで見届けて卒業させる。それが私たち教師の役割のはずです。
 
私たちが最も大事にしなければならないのは、学校という器でどんな子どもに成長させていくかというビジョンです。そのために話し合いがどれだけ行われているかがその学校の質を表します。その話し合いも行われないまま、ただ校務をこなすことはただの作業であって、教育ではありません。
 
確かに経験が豊富である主任級の教師であれば、容易く校務を運営することはできることでしょう。しかし、子どもの成長はひょっとするとまごついているかもしれなきけれども、子どもとしっかりと向き合った若い教師の方が上ということもありことでしょう。
 
そもそも、子どもの成長とは「効率」が悪いものです。何度も失敗するし、アホなこともしでかします。でも、そうした中から「次」が生まれ、和が生まれ、関わりが濃くなります。こうした子どもの成長を見守ることこそが教師の役割であるはずです。
 
私は子どもと一緒に失敗でき、そして一緒にその失敗を乗り越えていける教師になりたいと願っています。