「やらない」という選択

学校現場もIT化により、以前よりもずっと効率よく仕事が出来るようになりました。例えば、僕が教員になったころは、まだワープロ(ソフトじゃなくてハードね)の時代で、みんな自前ですから互換性がなく、校務分掌の引き継ぎは紙ベースでした。(ちなみに僕はパソコンに切り替える寸前には日立のwith meなんていう極めてマニアックなワープロを使っていました) 今ではサーバーでファイル管理されていますし、offceで文書されることが基本になったので(それでも僕はしつこく一太郎を使うけど)、仕事の継承はとてもスムーズになりました。
 
「それなのに」です。以前よりもずっと仕事時間は長くなっています。若い頃よりはずっと教材研究の時間も少なくてもいいはずなのに。主な原因は仕事の種類が増えてきたということにあります。教育がサービス産業に変わってきているともいえます。子どもの登下校の安全管理から始まり(おそらく学校の敷地入るまでの安全管理を教員がしている国はないと思います)、膨大な文書処理(同じような調査や依頼が舞い込んでくる)、そして説明責任という名の膨大な成績管理。さらには部活動の指導。
 
僕だと週に27時間ほど授業を行います。空き時間は週に1時間。この時間で校務分掌をこなしながら部活動にも組み入れられます。その結果が最近報道されたような「教員の平均残業 月80時間」となるわけです。中学校の教師ですと土日の部活動の分だけさらに拘束時間が長くなります。ただ中学校の場合だと、同じ授業を回せるということもありますが、小学校だと基本的に同じ授業はなく、子どもが幼い分だけ教師の関わる部分も大きいのでどちらが大変ということはないと思います。
 
一方仕事を増やしてきた理由は教員側にもあります。サービスというものは麻薬のようなもので、一度行ったサービスを減らすということは大変難しいことになります。「○○先生は○○をしてくれたのに」と言われて、気にならない教師はいないはずです。子どものひとつひとつの作品に一言一言コメントを入れてもらえば保護者はうれしいものですよね。そうしたサービスがどんどん積み重なり、夜の8時、9時、10時と黙々と仕事をしていることにつながります。
 
でも僕は無理です。家に帰れば子どものお風呂も入れますし、出来れば親として子どもと一緒に夕ご飯を食べたい。子どもと遊んであげたいしね。ですから僕はやらなくていいことはやらないようにしています。例えば子どもの作品に赤でコメントを入れることは本当に必要かというと僕はそんなことないと思っています。子どもの作品を評価するのは子どもであってもいいいですし、それよりも子どもの制作現場で子どもの良いところを言葉で直接評価してあげればいいだけです。
 
学級の掲示も僕はほとんど子どもに任せています。子どもが読まないようなお便りもはりません。その代わりに今は「江戸時代特集」なんていう読み物?のようなものが貼ってありますし、子どもたちがハロウィンの飾りを作って飾っています。そのディテールは立派なものではないけれども(欲をいえばもっといろいろ勉強してから作ってい欲しいけど)、僕はそんな何気ない子どもたちの飾り付けがすきです。
 
こうしたことは子どもの仕事を奪う「お節介な教師」から離れて、子どもにまかせちゃうおおざっぱさが生み出すものです。僕がお世話しすぎる幼稚園が大嫌いなのは、子どもの主体性を「教師の丁寧さ」が奪うからなのです。子どもたちができることを教師が奪うことがなければ、教師のやっている余計な仕事を子どもたちが喜んで補ってくれます。
 
教師が子どもたちの教育、その主である授業にどれだけ専念させられるかは、何も文科省教育委員会への依存だけでなく、我々現場の教師サイドでも「やらない」という選択をすることでもその時間を広げることが実はできるんです。
 
そして何よりも保護者は、教師の丁寧なコメントやきめ細かなお知らせを望んでいるのではなく、子どもが学校に行ってしっかりと成長することを最ものぞんでるのです。僕たち教師が毎日最も時間をかけるべき時間はここにあるのではないでしょうか。
 
追記
「子どもに任せる」ということと「子どもに仕事をさせる」ということは全く別のことです。特に係活動や委員会活動では子どもに任せるのではなく、教師のすべき仕事を子どもに分担させているなんてこともあります。僕が子どもたちに任せているのは「明るく楽しい学校づくり」です。