人が人らしくあるということ

子どもは考えもしないような愚かなことをしでかします。そのことは昔、子どもであった大人そして教師はみな知っているはずです。
 
もちろん、大人はそうした子どもの愚かな行動を叱る役割を担っています。でも叱るだけでは、決してうまくいかないことも知っているはです。もし、叱るだけで子どもが行動を改め、ポジティブに切り替えられると考えられる教師がいるとすれば、それはその教師がまれに見る(そうした行為でうまく育った)特別な人間だったのでしょう。
 
学校は子どもが子どもらしく、彼らを尊重して言うなら、人が人らしく育つ環境でなければなりません。でも教師という人間は最もそうしたことに敏感でなければならない職業なのに、現状はそうしたことに最も鈍感な人の集まりなのかもしれません。
 
僕が今、子どもとして学校に通っていうたらどうでしょ? とても息苦しいのではないかと考えてしまいます。「任される」ことがなく、あらかじめレールの引かれた道を踏み外さずに通れた者だけが教師によってほめられ、そして価値付けされていきます。
 
こうして、子どもたちは何の疑問も感じずにただ教師の言う通りに学習し、学ぶことが最良のことだと考えることになっていきます。それはなぜ上履きがみな同じでなければんらないのかとかいった毎日の小さな疑問にふたをするようにね。
 
これは裏を返せば、人が人らしくあるべきだということを考えず、考えないことを教師によって価値付けされてきた(それでいい思いをしてきた)生徒が教師を目指し、教師になっているという現実があります。そして、それは次の世代の再生産に向かっていくのです。
 
「悪」というのは実は目に見えないものなのです。時にそれは善意であり、常識であります。しかし、そうした中にこそ注意深く「悪」の存在が練り込まれているということを感じ取らなければなりません。教師としての常識や善意が、学校をだめにしていきます。
 
では、どうすればいいのでしょう? 3つあると僕は考えます。
 
解決の一つは、イマジネーションです。自分がもしこの学校で、このクラスで過ごしているとしたら、自分(教師)はどのように映っているのだろう? どう感じているのだろう? そうしたイマジネーションが自分の姿や言動に振り返りをもたらします。
 
もう一つは、「学校をとは何か」を問い続けることです。学校は子どもたちに何を提供し、何を成長させるのか、そうしたことを繰り返し繰り返し問うことで、学校の未来を考えていきます。そうすることで現状と理想との差が明確になり、理想のために何が不足なのかが分かるようになります。
 
そして最後は「任せる」です。ただこの「任せる」は僕に変革をもたらしたとても大切なことなので、次回にもう少し詳しく書きたいと思います。