うらみます

中島みゆきの「うらみます」のフレーズが頭をぐるぐる巡ります。今回はかなり厳しい話をします。
 
僕たち教師はプロフェッショナルでなければならない。僕たちは子どもを成長させることの対価としてお給料をいただきます。しかし、学校というものは怖いもので逆に子どもの成長を止めてしまうこともあります。止めてしまってもお給料がもらえちゃうのも教師の仕事です。でもそれでは教師のプロフェッショナルな仕事とは言えません。ですから管理職のマネジメント、そして迅速な対応が学校現場には必要なのです。
 
どの子どもでも自分が成長しなくてよいなどと考えてはいません。どの子どもも自分の成長を願っています。ですから入学式・始業式の日の子どもは目をきらきらさせ、この先生は自分をどのように伸ばしてくれるか(きっと子どもにはそうした明確な意識はないのだろうけど)期待に胸を膨らませているのです。
 
しかし、教師にその志も、能力も、そして技術もなければ、その子どものきらきらした希望は、毎日毎日スプーン一杯ずつ削り取られていきます。そして、そのきらきらした希望が全くなくなったときに、子どもはあきらめます。しかし、怖いのはその先もあります。0になると今度は子どもの持っている心の善までもが削り取られていきます。その削りとられた重さの分だけ、教師を「うらむ」ことになります。この状態が学級崩壊です。
 
いきなり学級崩壊になることはないのです。毎日毎日少しずつ削り取られていくことで子どもがあきらめ、そしてうらんでいくのです。しかし、その状態になるまでに何度も補正するチャンスはあるはずなのです。そのサインを見逃して補正できないことで崩れは決定的になります。
 
でもこうしたことに対して自覚を持って何とかしたいと思うのであれば、学年や学校のチームとして素早く効果的に対処できます。しかし、難しいのはそうした崩れが、子どもや家庭のせいであって「自分は悪くない」と落としどころを決め込んでしまう場合です。確かに子どもの性格や家庭の状況など、子どもが素直に生活できないような要因があるかもしれません。でも「だからこそ学校では生き生きと楽しく」過ごせるように努めていくのが教師なのではないでしょうか。荒れている子どもの心を救えるのも学校なのです。
 
僕も決して完璧なんかではなく、多くの失敗を巻き込みながら子どもたちと日々向き合います。子どもの成長がまだまだだなのも自分の力の無さだなと実感することもよくあります。そんな僕でも子どもたちが付いてきてくれて、勉強でも、運動でも、生活でもがんばるのは、「きっとこの先生だったら自分はもっと成長できるはず」という子どものきらきらした希望が残っているからなんだと思います。