分かるとは何か?

http://d.hatena.ne.jp/tontan2/20130112/p3 に続きます。
 
分かるという状況は何か? 
子どもとの対話を通してみえてきたことを書きます。その前にどのようにして見えてきたかです。今算数ではこんな対話を通して分かるに移行させています。
 
問題
   4
ー0.1

という単元テスト。問いはこれはどこが間違っているのか、正解はいくつかというものです。
 
T「どうすればいいの?」
C「4をとなりにずらして答えを求める」
T「どうしてずらすの?」
C「・・・」
C「点に合わせる?」
T「点に合わせるってどういうこと?」
C「0の上に4がくること?」
T「どうして0の上に4がくるの?」
C「1の位だから?」
T「1の位だとどうして0の上なの?」
C「???」
T「ねっ? 分かっていないでしょ? なぜだか言えるようにして先生の所にいらっしゃい!」
 
  
算数が苦手な子どもとの対話です。この子はこの会話の最後には自分は分かっていないんだということを私に指摘されて学び直していきます。さて、分かる子どもと分からない子どもの差は何なのでしょうか? 
 
この場合の最も重要な部分は「動的か」「静的か」だと考えています。算数の得意な子どもにとっては、絶対に間違いのようない問題なのです。なぜなら上の問題を数量として動的に移動できているから、4−0.1の量的な差も、数字の位取りも間違うことがないのです。しかし、算数が苦手な子どもにとってはこれらは静的な数の情報でしかありません。ですから上記のような答え方しかできません。
 
学び合うということは、教師もこの「分かっていない」ということを簡単に見逃します。「できている」から「分かっている」と勘違いしやすいのです。特に教師経験の浅い人にとっては、かなり難しことでしょう。私も丹念に子どもの学びを追っていかないと、どんどんこぼれていきます。
 
これらは国語でも同じです。例えば主語と述語、学び合ってみんな100点取れたとして、1ヶ月後に同じことを不意打ちでやってみてください。半数近くが間違うと思います。分かる子どもと分からない子どもでは読み方が異なっていることが分かっています。これは子ども同士で学び合い情報をシェアしたとしてもです。
 
「できる」から「分かる」へ。ここに教師の役割があります。ここでは教師が教えることでしか乗り越えられないギャップもあります。そこをいかに素早く見極めていけるかが大事なのです。学び合いのような共同学習がどうして難しいと言われるのかはここにあります。私は一斉授業よりもはるかに難しい授業だと思っています。もし「誰でも簡単にできる」なんて考えているようでしたら、もう一度自分の足下をよく見た方がよいと思います。