潮流を感じた2日

『学び合い』のフォーラムに行ってきました。実は初めての参加です。

昨年のみゆき会で、Iさんに半分冗談で「『学び合い』のフォーラムも、みゆき会のブースを設けてくれるような心の広さが欲しいよね。」と話をしたら、今年はきちんと場を設けてくださり、会に呼んでいただけました。本当に本当に感謝です。お礼に「なぜ『学び合い』は崩れていくのか」という本気の話をすることに決めて、分科会を進めさせていただきました。
 
僕が4年前に『学び合い』に求めていたのは「多様性」でした。ただ当時の組織にはその多様性を受け止めるだけの器がなかったように思います。当時、もし上記のようなテーマで分科会を開いたならば、きっと非難する人の方が多かったことでしょう。でも僕は『学び合い』の成立には、多様性を受け止める力が最も大事だと考えていたので、それを受け止め、認められないことに嫌気がさしました。そういうこともあり、これまで距離をとってきました。
 
今回、僕らが上記のようなテーマでも話が快くできたのは、フォーラムの力が上がり、僕らのような異端な存在も許容できるようになったということなのだと思います。僕が距離を置いているうちに、多くの実践者が力を伸ばしてきたのでしょうね。そうしたことが分かって僕はとてもうれしくなりました。
 
そしてこの2日間に僕は日本の教育の潮流を実感しました。僕は目に見えるような教育の変革は20年後くらいだろうと予測していましたが、もう少しこれは早くなるようです。日本のような国は一旦舵を切ると速いのかもしれませんね。僕がこれから残りの教職年数でできることは何か、もう一度見直してみる必要があるのかもしれません。
 
また、講演された武蔵大学の武田信子さんとも、偶然とは思えないようなタイミングでコンタクトできました。ちょうど今年からコルトハーヘンのリフレクションを授業の事後研究会に取り入れることを決めていましたので、講演会の話から多くのヒントをいただくことができました。予想もしていなかった方向からつながるというのは、単に偶然なのではなく、僕はこれは必然だったのだと思います。これは情報が線ではなく、面で展開されてきていることによるものだと理解しました。
 
僕はこの数年、視野が狭くなってきたような気がします。東京では2日間で新しい潮流を眺め、そして新しい空気を吸い取りました。実りの多かった2日間でした。

インタラクティブカリキュラムの特性とは

小学校の学級担任性が中学校の教科担任制に比べて優れているのは、子どもへのケアだけではありません。
 
学級担任であるということは学習の垂直方向の力が弱い(つまり教材研究の力が弱い)反面、水平面で学習を捉える・統合する力が強いと言えます。インタラクティブカリキュラムがその典型です。おそらく中学校の先生にはこうした発想はかなり難しいのではないかと想像できます。小学校の先生ならば「ああ、なるほど!」と捉えることができても、中学校の先生が他教科の学習内容に踏み込んで自分の教科を統合的に学ぶイメージ作ることは難しいことでしょう。
 
しかし、入試制度が変わり、教科統合的に学習することが求められるようになってくると、中高等学校の先生も今までのやり方では通用しなくなってくることでしょう。インタラクティブカリキュラムの実践は、学習を合科的統合的に面展開し、教科という枠に揺らぎを持たらします。
 
インタラクティブカリキュラムは小学校の先生ならば、すぐにでも実践し効果を上げられる技術ですが、僕はむしろ中高等学校の先生の実践に期待します。中高等学校の先生がこうした水平面での学習展開ができたら、もともと垂直的な深さを持っているわけですから、カリキュラム上の時間と合わせ、3次元的に学習を構造化することも可能になると考えています。
 
逆に小学校の教師は面で展開することで、必ず教材の検討、特性、目的にアプローチすることになります。複数の教科内容をマッチングさせていくためには、学習スキルに必ず戻らなければならないからです。
 
常にこうしたことを意識して授業をするかしないかで、学びの質が貧弱な授業か、豊かな授業かで差が出てくることでしょうね。
 

教科担任制のデメリット また

前回は小学校における教科担任制の現状と問題点について書きました。
今回は小学校であるがゆえの問題点について。
 
そもそも小学校ではなぜ学級担任制なのでしょうか? その最大の利点は「1日を通して子どもの状態をつかめる」ということです。小学生にもなればどの子も言いたいことをきちんと伝えられるわけではありません。例えば、おしっこを漏らしてしまう子どももいます。そうした子はおっしこがしたくても、ちゃんと伝えられないのです。学級担任であれば、朝からの観察や日常の変化を拾いやすく、こまめに声をかけたり、先回りして準備したりすることができます。いわゆるこれが小学校の先生の「きめ細やかさ」なのです。
 
前にも書いたように、僕は小学校5年生くらいから心身と頭脳に大きな変化ができると感じます。この根拠は、インタラクティブカリキュラムの実践です。3年生と4年生の変化と、4年生と5年生の変化では明らかに異なります。こうした理由から、小学校5年生くらいになれば教科担任制を導入しても十分に対応できると考えたわけです。しかし、それは「ぼんやり」と子ども集団を眺めた場合です。僕くらい思い切り協同学習をやっているような学級でも、子ども同士では解決できないような、心身の問題を抱えている子どもも一定数出てきます。朝からそうした子どもにアンテナを張っていれば気がつけたことが、教科担任制で気がつきにくくなります。学級担任なら「大丈夫?」って声をかけられたことが、できなく発見が遅れることもあるのです。「そんなこと中学校では当たり前。だから学年のチークワークが大事。」そう中学校の先生は思うかもしれませんが、問題が起こる前に小学校の先生は動き出し、ケアをし、未然に問題となることを防いでいることも多いのです。
 
そう思うのは、以前僕が教科担任生となった6年生を担任となったのですが、ある大きな事件が連続して起こり、その問題の原因を見つけるまでに数カ月も要しました。きっと僕が通常の学級担任であったらもっと早くその原因を見つけ、対応を図ることができたことでしょう。しかし、当時はチームワーク(もちろん中学校の先生も含めて)だけでは解決できませんでした。僕は今でのその原因となった子どもに申し訳ない気持ちでいっぱいなのです。教科担任制になったことで、その子どもは僕からすり抜け、問題を重ねていったのです。
 
その戒めは、今でも教科担任制をするときに、極めて気をつけていることです。学習センターが自由席になっているのも、学習のためだけではなくて、子どもの状態を掴むという機能をもたせるという理由もあります。ですから、小学校で教科担任制を導入するには、中学校よりも一段と注意深く子どもを見つめ、ケアしていく力が求められるのです。
 
前回のエントリーの「やっぱり授業」の中味にはそうした僕としての授業感が入っているのです。

やっぱり授業

本校では特別活動という切り口からも「子どもの自立」へのアプローチに取り組んでいます。具体的には早稲田大学の田中博之さんのレーダーチャートの活用を導入しています。こうした取り組みも学校の中でとても大切なことと思い全クラスで取り組んでいるわけですが、それで全てを解決できるわけではありません。効力としては全体の10分の1にも満たないことでしょう。では子どもを自立させていくためのマックスファクターは何でしょう?
 
もちろん授業です。僕は単純に学習内容の習得や習熟とは別に、教科教育の学習は子どもの心の成長にも極めて大きな影響を与えていると考えています。今年は教科担任制ですから、1クラスあたり最大でも週5時間、1日で1時間となります。それでもその1時間で子どもの関係性を崩し、再構築させていくことができます。
 
「え〜〜〜〜、算数なんてわかんな〜〜い」「算数面倒くせ〜」という子ども、人間関係が取れないでトラブルを起こす子ども、集団でグダグダ遊んでいる子ども、教科担任制でこうした子どもをどう軌道修正させていくかが僕の挑戦でもあります。単純に算数をしっかり分からせるというならば、教科担任制なんて特に難しさはありません。その基盤となる子どもの自立を形作りながら授業を組み立てていくことが難しさなのです。それでも毎日授業の時間を持てるということは、子どもの動きにある一定の変化をもたらします。1学期が終了して、子どもに変化が生まれてきました。正確に言うと、僕の対応が最適化してきたとも言えます。
 
授業というのは、教師の姿そのものが投影されていきます。何を考えているか、子どもをどう見ているか、子どもたちをどう成長させたいか。授業は1日に5〜6時間もかけて、しかも小学校の場合にはその大部分が一人の教師が。それらをずっと浴び続けた姿が子どもたちの全体像なのです。僕らは教育哲学を持つべきなのです。私は何のために子どもたちの前で授業をしているのか。あなたは何のための授業をやっているのでしょうか。子どもは何のための勉強するのでしょうか。

教科担任制のデメリット

小学校の教科担任制。実は極端に教科が偏っています。教科担任制(小学校でいう分科の授業)の多くは理科や音楽、図工です。逆に算数、国語、社会、体育ではそれほど多く行われません。これにはいくつか理由が存在します。そこを掘り下げながら、まずは現状の教科担任制の問題点を示していきます。
 
小学校の「分科」の実態
現状の小学校で特別な加配がない場合、学級担任制を基盤とする小学校では教科担任制を回せるほどの教師の数はおりません。多くの学校では教務主任や教務が分科の授業を受け持って授業するということになります。これは実は専門性とは関係なく、主に高学年の学級担任の空き時間(つまり事務仕事をするための時間ね)を確保するためのものです。これによって、小学校高学年の教師は週に2〜3時間程度の時間を空き時間としていただき、その時間で行事関係や成績処理、子どものノートの整理を行います。低学年や中学年では学級の時数が少ないので、その補正をするという役割があります。
こうして年度始めに分科として教務主任や教務などにやって欲しい授業などを相談することになりますが、教務主任の専門性とは基本的に関係なく、授業の準備に時間のかかる理科などが選ばれます。ですから分科で授業をやっているからといって、その分科授業をやっている先生が理科が得意とは限りません。そして同じような理由で音楽、図工が選ばれることが多くなります。
逆に国語や算数が選ばれない理由は「時数」です。国語や算数はどの学年でも基本的に毎日ありますから、これを分科として任せれば教務や教務主任の負担が多くなります。
小学校で行われている多くの分科授業は「専門性」とはそれほど関連はありません。
 
交換授業の実情
それでも近年は小学校でも専門性が問われることが多くなってきています。その一つが小中連携が密接になってきたことにあります。僕も小中一貫校に勤務していた時には、小学校6年生の担任をしながら、中学校の理科も授業していました。この例からもわかるように、世の中のニーズは確実に専門性(少なくとも小学校の高学年では)へと向かっています。
しかし、上で述べたように今の人的配置では難しいこともあり、多くの学校で交換授業が行われます。交換授業というのは、例えば1組の先生が2組の国語もやるかわりに、2組の先生が1組の算数をやるという形です。本校でも実は最初にこの形を管理職から提案されましたが、僕は強固に反対しました。これは持続モデルではないからです。例えば学年3クラスだととたんに複雑になります。また、学年2クラスであっても一人の先生が年休をとれば、隣のクラスの授業まで影響を及ぼします。さらに時間割の設定がかなり複雑になり、設定するのが難しくなります(小中一貫校では、中学校の教務主任が毎週遅くまで時間割づくりに追われていました)
中学校の先生がこれをイメージするならば、週に25コマ、3学年の授業を持つようなものです。確実にパンクします。実際に交換授業を教育委員会レベルで行っていたところは、教師の負担感が増えたと感じることが多くなったり、なかにはやめてしまったところもあります。

これが今の小学校の「分科」の実情です。小学校で教科担任制が広がらないのはこうした理由があるからなのです。

とける学び

「とける学び」最近はそんなことを考えています。

インフルエンザ香港Aは、100年ほど前の新型インフルエンザであり、世界中で猛威をふるい、数千万人の人が亡くなりました。第1次世界大戦が終了するきっかけにもなったと言われています。お盆に母の実家の墓参りをすると、ちょうどその頃20歳ほどで「感冒」にかかって亡くなったご先祖様もおります。こうした極めて強力なウイルスはいずれ緩やかに弱毒化し(まあそれでも年間万単位の人がなくなるわけだけれど)、死ぬ人は圧倒的に少なくなります。
 
授業でも「新しい実践」というのは異物なのです。この実践が強ければ強いほど、その抵抗は大きくなります。まるで新型インフルエンザに感染した時のサイトカインのように(ちなみに新型インフルエンザで亡くなる原因はこのサイトカインストームだと言われていて、僕のご先祖のように免疫の強いはずの若者がなくなる原因だと言われています)。
 
しかし、力のある実践はインフルエンザのように細かな変異を繰り返しながら、私たちの授業の中にいずれ取り込まれていくと考えています。教育界にはそうした「言葉のかけら」もしくは「残骸」が無数に存在しています。例えば「子ども」は「子供」とは意識的に区別されてきたものですが、もはや区別してきた理念などすっかりと抜けて、それがまるで「子ども」と書くことが当たり前のようになってきています。今ではほとんどの先生がなぜ「子ども」と書くのかさえよくわからないことでしょう。
 
僕もこれまではずっと「もっと」を追い求めてきました。マツダのskyactiveエンジンの開発(これまで全く使い物にならないと思われていた高圧縮比でガソリンを燃やす技術ね)のように、通常は「無理だ」と思えるようなことを、いくつかのブレイクスルーを通して実現してきました。僕は正直言うと授業者というよりも研究者というしての側面が強いのかもしれません。そんな僕はある子どもは「ドS教師」と言います。僕に無茶な要求を出されるからでしょうね。
 
さて、僕はそろそろこうした技術的な追い込みはもうあまりやらなくていいんじゃないかと思うようになりました。もちろん、ないもしないと息が止まるのでこれからも密かに何かをやっているはずだけど、今までのような豪速球は投げなくてももよいような気がします。いずれ僕の実践が子どもや周りに先生の無意識に溶け込ませていくような、そんな見えにくくて地味な作業をしていく必要がでてきたなぁと感じるのです。
 
それを僕は「とける学び」と呼ぶことにしました。

教科担任制3ヶ月の振り返り その3

なぜ小学校での学級担任制を増やしたほうがよいのか? 今回は別の視点から切り込みます。
 
僕らの世代が採用された時代、平成4年ごろは市内の大規模校は児童数が軒並み1000人ほどおりました。当時は40人学級(現在の福島県は33人が最大人数です)したが、学年は4〜5クラスが普通でした。僕が新採用となり配属された3年生には50歳の女性主任を筆頭に50代女性、40代女性、30代女性、そして僕です。その中には力のある先生も僕みたいな力のない先生もいましたが、学年はたいして問題もなく、崩壊することもなく運営されていきました。その学年は4年間持つことになりましたが、5年生からは4クラスになり、クラスの児童は40人。学年主任は今なら確実に学級崩壊を起こすであろう50代の女性教師でしたが、30代の男性教師、30代の女性教師が主力となり、僕や主任をカバーしながら卒業までこぎつけます。
 
今はどうでしょうか? 当時、今の勤務校は1000人ほどの学校でしたが、現在は430人ほどです。先の述べたように福島県はクラスの最大数が33人(1〜2年生は30人)ですが、それでも3クラスはほぼ姿を消し、2クラスが主流になりつつあります。かつて中規模校であったところは、今は単学級になりつつあります。福島県で最大の都市ですら、このような状況になってきているのですから、田舎の方はさらに状況は過酷です。
 
そうなると、学年は一人か二人が主流になります。そうなると学級経営に耐えらない人がいてもカバーする人が学年にいないのです。経営力のなさが、そのまま学級に影響してしまうのです。「経営力」と言いましたが、その根幹は実は「授業」です。先日学活の授業を見ていた時に「なぜ授業できちんと話がきけないのか?」という話し合いになり、ある子は「だって話がつまんないんだもん」と吐き捨てるように言っていたように、「つまらない」のを6時間も続くのですから、それが体に出てきて当たり前なのです。そうした子どもに「つまんないと思ってもちゃんと話を聞かなければダメ」なんて説教しても何にもならないのです。
 
こうした少子化が進んでいく中では、子どもは授業という「孤独」で「退屈」な世界から抜け出せなくなる可能性が高くなります。3〜4クラスもあれば、学年でさまざまな先生が指導にあたり、担任とは相性が悪くても、別の先生とじゃれあうことで孤独と退屈を解消できたのに、もう毎日毎時間、相性のあわない先生と一緒なのです。
 
僕だって子どもとの相性があります。僕みたいは変人を好む子どももいれば、僕とは正反対に優しく丁寧に声をかけてもらいたい子どもだっています。ですから、子どもには教師もまた多様であった方がいいのです。
 
僕の今の役割は、通常の学級では取り残されていくような子や個性がめちゃめちゃ強くてトラブルを起こしやすい子どもとか、そういうスペシャルな子どもを僕の算数を通して、満足感を与えていくことなのです。