「教育する」とは何か?

私たち教師は、退職するまで「教育する」ということの意味を考え続けていかなければならない職業です。それが使命なのです。
 
例えば「宿泊学習をする」という時に、そこでどんな子どもの成長をめざすのか考えていくことが一番大事なのです。その軸がぶれなければ、子どもはちゃんと育ちます。一方「うまくいく」ことを優先するのであれば、班編成に口出ししたり、子どもの行動にたくさんの制限をかけることになります。我々が子どもに対しての危険回避能力さえ高ければ、子どもの行動にいちいち制限をかける必要などないのです。
 
学校の中で漫然と行われる各種行事や活動のひとつひとつの意味を私たちはもう一度見直していく必要があります。「当たり前」であることに「隠れた悪」は存在するのです。その連続の中に子どもの成長などないです。
 
運動会何のため? 学習発表会は何のため? 児童会活動は何のため? 鼓笛隊は何のため?
朝のボランティアは何のため? お掃除は何のため? そして授業(学習)は何のため?
 
こうしたことのひとうひとつの意味を考え、そして子どもたちをそこでどう成長させようか考えていくことこそが、教師の仕事なのです。
 
ところが多くの学校はこうした様々な行事や活動が漫然と行われ、形骸化しています。クラブ活動でプラモデルを作らせていたり、鼓笛隊のメンバーを教師がテストして決めたり、運動会の計画を教師だけで立てたり、児童会活動が学校の雑用の仕事の代替になっていたり。
 
僕はこれを「学校の静かな死」と言います。それはゆっくりゆっくり、そしてそれはあたかも当たり前のように、じわじわと侵食し、やせ細られていきます。