結局は人

全く技術もない人が言っていい言葉ではないのだけど。
 
多くの教師は、さまざまな研修、講習、校内研究、そして同僚との対話を通して技術を身につけ、一人前に育っていきます。でもそれだけだったらどんな教師でも年齢を追うほど教師としての力量は発揮できるはずです。しかし、現実はそうはなりませんよね。でも多くの教師はさまざまな実践を追い、そしてそれらを取り入れることで自分の実力が上がると思っています。だから「方法」にこだわります。
 
実力があるなと思う人も僕に「どんな方法でやっているの?」って聞いていきます。でも、実はそうした方々は僕はどんなやり方をしているのかを知りたいのではなくて、僕がどのような考えを元に実践をしているのかを掘り下げて聞いてきます。簡単に言うと「子どもへの向き方」です。
 
どんなに技術だけを積み重ねても授業なんてうまくはなりません。子どもはそこを観ていないからです。子どもが観ているのは「教師の姿」なんです。例えば、何かおもしろい実践があって、それを自分でも取り入れてうまくいったとします。でも持続できますか? その多くは持続できませんよね。「新しい」だけでは子どもは次第に飽きてくるか、実践している自分は面倒くさくなるからです。
 
何かを持続して実践して行くには子どもとの合意が必要なんです。「この先生は自分をどう思っているの? どうしようとしているの?」そこの部分で子どもとの合意ができていない限り、授業は決してうまくはいきません。だって「よい授業をする」のは教師じゃなくて子どもだからです。
 
若い先生は技術も少ないのですからさまざまな実践を取り入れることはよいでしょう。でも最も取り入れなければならないのはその先生の「姿」なんです。その先生の姿を自分とすりあわせていくことで教師として成長が促進されていきます。
 
僕の知る限り、一流の先生はみな馬鹿馬鹿しいほど「本気」です。その本気の度合いが子どもを動かし。大人にしていきます。僕もそうした馬鹿でありたいです。