場を感じ取る力

教師の仕事には鈍感さも時には必要です。全てのことに丁寧に敏感に取り組むことが必ずしもよい結果を招くばかりではありません。
 
しかし、絶対に敏感でなければならない部分があります。それは教室という「場」を把握するということです。廊下を通るだけでもその中の教室の雰囲気や特質を感じ取ることができます。教師の強力な支配下にあるような教室には一種のバリヤーみたいなものがあって、教室に入るのが苦しいところもありますし、子どもがハチャメチャで荒れているなと感じるとこともあります。また逆にとても入りやすい教室もあって、そうした教室は大抵子どもの目線が他者に親しげです。
 
鈍感な教師だと学級の子どもの「荒れ」をその子どもの問題だととらえます。しかし、考えてみてください。子どもが授業中に「うるせー」とか「くそばばぁ」なんていうのは本当にその子どもの問題でしょうか?
 
大抵はそういうことを「言ってもいい」「言わないと気が済まない」という場の雰囲気があり、そしてそれを言ってもいいという「他の子どもたち」の合意やあきらめが必ずあります。その対処を間違って、子どもを叱りつけても、または親を呼んでもモグラ叩きのようになり、しばらくは黙る代わりに他の子どもが荒れを先導します。また、黙ってそのようすを観ている子どもたちもどんどん腐っていき、その場を荒れさせていきます。
 
子どもの成長は教室という「場」で決まります。一対一の教師と子どもの関係ではないのです。勉強するのも、相手に優しくするのも、あいさつするのも、その場の「たしなみ」が子どもの行動を決定づけます。
 
ですから、場の雰囲気に鈍感であることは教師にとってある意味致命的なのです。場づくりを考えない限り、ずっとパッチを当てていくことになります。
 
学級崩壊がおこるような教室では必ずこうした場が荒れています。でもなかなかその場を感じ取ることができないことが、対処の遅れを招くのです。