平等とは?

子どもの能力は平等ではありません。しかし、特に公的な学校で子どもの能力も平等(本当は教師は誰もそんなことは思ってもいないのに)であることを前提にカリキュラムが組まれ、授業が進んでいきます。
 
学校で平等でなければならないのは「機会」です。どの子どもも平等に学ぶ権利が保障されなければならいのが学校でなのです。しかし、ほとんどの学校では逆転現象が起こっています。
 
例えば、学級の狭いゾーンにしか対応できないような授業をしておきながら、学校での勉強ができないから、保護者に「ちゃんと家でも勉強させて下さい!」とごり押しする。もちろん宿題は大事です。でも学校の勉強の質が低いままそれを家庭に放り投げることは、子どもが平等に学ぶ権利を奪うことにつながります。
 
30人前後の人間がいれば、勉強の出来ない子どもなんてたくさんいるし、運動の出来ない子ども、絵の下手な子どもなどなど、そんなの当たり前にいるのです。でもそうした子どもが学び続けられるようにすることが教師の役割であり、子どもが平等に学ぶ権利を保障するということなのです。
 
多くの教師は「出来る子ども」が大好きです。だって自分の言うことをちゃんと聞いてくれるし、思ったように動いてくれるからね。でもそんな先回りできる子どもは果たして何人いるでしょうね?
 
また私は子どもも能力は平等でないことを知らなければならないと思っています。だから僕は子どもの前でも「能力なんて平等じゃないよ!」「勉強なんて始めからすらすら出来ちゃう人もいれば、何度やっても分からない人もいるよ」と平気で言います。でもその裏には「どの子ども必ず優れた能力を持っている」と本気で思っている自分がいます。
 
さらに子どもたちには「どんなに苦手なことだって努力すればそこそこには上手になるよ。ただ超一流になれるかというと難しいけどね。」とも言います。学び続ける限り子どもはちゃんと成長していきます。ですから学び続けることがちゃんと自分の成長につながるのだと子どもたちに伝え導いてあげなければなりません。自分の成長する姿がさらなる自分を高めていくのですそのうちに超一流に成長する子どもも生まれるかも知れませんよね。
 
学習指導要領も、教科書も、子どもの能力が平等であることを前提に作られています。これは当然です。だからこそ、その中味を教師がどう子どもたちに落としていくかが大事であり、教師としての能力が問われるのです。
 
僕たちが「学び続ける子どもの会」というグループを立ち上げたのはそうした教師としての理念と技術の融合をめざしてのものです。
 
子どもたちが平等に学べる学級、そして学校を作っていきましょう!
 
※追記
だから本当は運動会の「チャンスレース」は嫌いなんです。学習に「運」を取り込んじゃいけないのです。国語の出来ない子どもに「チャンス!」なんてないのにね(笑) ただチャンスレースは単純に「おもしろい競技」ではありますけどね。