経験主義

先日のmana-mama5さんの問いについて。(中味については下記をご覧ください)
 
戦前から経験を学びの基盤にしていこうとする実践はありました。確か、奈良教育大付属小学校なんかがそうでしたよね?(間違っていたら指摘してください) 実は戦後の昭和20年代にも一大ブームになりました。体験的・経験的活動をコアとして、そこに教科教育を取り巻いていくような教育です。しかし、そうした教育は批判も強く、その後系統的、教授的な教育にシフトしてきました。
 
それらがもう一度掘り起こされてきたのが、1980年代で学習指導要領でも子どもの問題意識重視や問題解決的な学習を基盤としていく「総合的な学習の時間」が授業の中に組み込まれました。しかし、またもや「学力低下」「ゆとり教育」として、学習の流れは系統学習へとシフトして今に至ります。
 
簡単に言うとこんな感じです。(こういうことにとても詳しい人がいるし、本が1冊書けちゃうくらいの歴史なので詳しく知り合い人は勉強してみてください)
 
実は私は経験的・体験的な学習にはあまりいい感じがしません。その典型的なのはI小学校です。教員なら誰でも知っている小学校ですが、体験的経験的な内容に、教科教育を絡めて学習しています。ところがそのカリキュラムを見るととてもできそうにないほど複雑です。「複雑」という言葉の中には「乱暴な」「強引な」という意味も含まれています。
 
戦前からこの問題は指摘されていて、体験的活動と教科を絡めた場合には理解の定着が曖昧になり、情報を整理の能力が乏しい子どもにとっては複雑になりすぎて、理解が混乱してしまうというものです。
 
私も教師に成り立ての頃はそうした学習(経験主義的な学習)が絶対的に素晴らしいものだと思っていましたし、こうしたカリキュラム開発には相当力を入れてきました。しかし、長年やってきた中で、実際には子どもに力が備わったとはとても言えない状況でした。「経験するなかで問いが生まれ、その中で教科の学習が生まれていく」そんな思い込みをしていた時代もありました。
 
実はmana-mama5さんが言うような授業もやったことがあるし、研究公開(後悔)もしたことがあるんです。でもやってみて、冷静に自己分析するとやっぱり子どもにとっては複雑すぎて(つまり問題を解決するための要素、子どもの学びとってはノイズ)子どもが混乱するんです。ですからmana-mama5のおっしゃるような授業は実は危険なんです。
 
ここまで読んで「あんた前に言っていることとちがうじゃんか!」と思われるかもしれませんね。
 
私のいうシームレス化というのはこれら大きく違います。点と点、内容と内容をリンクスさせるというのではなく、「溶け込ませる」とか「面で接する」という感じのものです。何を言っているのかほとんどの人は分からないと思いますが、誰にも分析してもらっていないので自分でもこの表現が精一杯です。
 
カリキュラムが融合し、なおかつ「行ったり来たり」という「ゆるさ」があるために子どもたち自身がシームレスに学んでいます。算数が国語であり、国語が算数であるというようなものです。ですから「結果」もたたき出せます。今日も校長先生が社会科の授業を観てくださったのですが、国語と社会科の融合によって、社会科の学習レベルは飛躍的に向上しています。ですから「子どもたちのレベルが2学年上を行っているね」と子どもたちを褒めてくださいました。
 
今やっていることを言語化できるのはこれが精一杯です。自分のやっていることをうまく言語化できなくてすんません!