反論の反論3

11)「“ちょぼちょぼ”論」は授業を表面的にしかみていない証拠で、その授業で教師が何を見ているか、何をしていかに気がついていない。これは子どもの話をからも分かる。子どもは教師を「誰でもいい(「学び合い」をしてくれる人なら)」とは言わない。教師の働きは自分たちの学びをより高度にするために必要だと言うし、子どもはその教師の専門性を求める。
 
12)よく子どもに実践材料もさわらせないで、予想や見通しを立たせる授業をやっている。昔の私も。しかし、そんなものは「当てずっぽう」に過ぎず、箱の裏の重さの表を写す方が賢い。しかし、そんなものは写しても意味がないから、予想と結果の相関関係をたどったときに、上記の子どもは「予想は数字ではない」という指摘を受けて「予想の数値」を消しゴムで消して、結果との相関関係を戻せばいい。。
 
13)学習指導要領には「なぜ体積が同じなのに主さは異なるのか」という内容はない。指導要領には「体積が同じでも重さには違いがあるものが分かること」が目標であり、この学習のレファレンスである。ここは、授業の中盤で押さえてある。「なぜ違うのか」は、授業の遊びの部分であり、消え去ってもいい内容だ。でも「なぜだか理由を考える」というリテラシーは、これからの学習も必要である。何をしたかの知識は消えても、もう一段考えるというリテラシーは、子どもの学習の姿となって残っていく。「なぜ」も考える楽しさを知らずに知識だけを詰め込んでいき、簡単な計算が入ったとたん中学校での理科嫌いが炸裂するのは、この小さな部分をおろそかにしていから。中学校で授業をしていると可哀想なくらいこうした経験も能力が欠けていることが分かる。
 
14)ホワイドボードは書きやすく消えやすい。消えやすいから子どもの内在する考えを引き出せる。ホワイドボードが不足していたときには「紙」と「鉛筆」で代用したが、明らかに子どもの考えを引き出す力は弱い。ホワイドボードは消えることを犠牲に、子どもの内在するものを簡単に引き出す力がある。またホワイドボードを次時まで消さないで残すこともあるが、大抵は子どもはその記録を消してもう一度再構成する。これは一見連続性がないように見えるが、前時に「出力」したことで、子どもは次のステップに移っている。例えば、ホワイドボードを写真に写してノートに貼らせても、そんなものは子どもは見返したりはしない。リファレンスという目線で見ると、せっかく書いたものを消すなんてまさにアホのように思われるが実はそうではない。
 
15)どの授業にも意欲的かどうかだけが重要なはずなどなく、結果を求めない授業はない。結果とは、あくまでも学習指導要領に基づく内容を理解し、課題に向き合う姿である。