反論の反論2

6)「学び合い」が特徴的なのは、平均点の向上ではない。最低点の向上である。また上位の学力の伸びも大きい。
 
7)教員のレファレンスを前面に出した授業は“落ちこぼれ”が必ず存在する。しかも、その割合は学力に反比例し、学力の低い高等学校では授業そのものが成立しなくなるようなことも起きている。しかも、レファレンスをどのように示そうとも、その寝ている生徒を目覚めされることも、ましてや学びに没頭させる力などない。
 
8)「学び合い」が特徴的なのは、下位の子どもが予習復習をするようになることだ。つまり学習に腐らない。芦田氏の言うように、もしも相対化による「見えない落ちこぼれ」が大量にあるのなら、子どもの成績も、子どもの学習意欲も向上することなどない。
 
9)一斉授業では一授業内で教員が採点することが多いが小学校では、そのために長蛇の列を作り、後ろでは遊んでいる子どもがいる始末である。しかも、多くの教師は採点はすれども、それをフィードバックすることもなく「ただの成績の記録」に留まっている。児童生徒が「何がどうできなかったかを理解する」のは自らが間違いを直したいという態度とそれを直せる時間と場の確保である。「学び合い」ではその場と時間を授業の中に確保している。だから私は「何度でも」やり直せる手だてを取る。
 
10)「学び合い」のレフェランスは〈より進んでいる、より遅れている〉かに留まるわけではない。「やらせっぱなし」の「学び合い」ならばそうかもしれないが、実際には教師の働きかけは大きい。子どもの動きを計るのは進行度でななく、子どもの深度である。