反論の反論1

芦田先生とお会いして改めて「学び合い」でなければならないと確信しました。
 
今日は反論の反論。
 
1)私は「学び合い」ではそもそも毎時ごとのレフェランス(「基準値」)というものはそれほど重要ではないと考えます(これは「なくてもよい」というわけではない)。そもそも毎時ごとに基準値を達成させようとするから、多くの児童や生徒がそこからこぼれて逃げていく。児童の進度のみならず理解度も授業内でばらばらなため、相対指標しかないと言われるが、そもそも毎時ごとに達成基準を設けて児童の到達度を細かく測っても、その合計が子どもの理解の深度や確かさにつながるわけではない。
 
2)進度や理解度はそれぞれに異なることは極めて当然であると考えるが、それを芦田氏のように「子どもの個性」とか「子どもの可能性」などとは考えてはいない。能力の差は歴然とあり、それは脳の発達には差があるということに基づく。学習に子どもの個性などは基本的には関係ない。
 
3)そもそも「学び合い」では「子どもは能力はそれぞれ違う」という前提に立たなければ成立しない。コミュニケーションは子どもの「内在する自分」との対話を引き出すためのものであり、個性教育とかコミュニケーション教育というものとは異なる。「学び合い」は人とのコミュニケーションだと思われているが、実は自分との対話でなのである。
 
4)全国水準を意識した学びは「学び合い」にとっても非常に大切である。それを単に「お受験」とか、「詰め込み教育」などという言葉で馬鹿にする方が愚かだと思う。しかし、進学塾で講師をしてきた経験では、特進クラスの子どもの学びはとても「学び合い」的である。授業の中での会話も非常に多い。学年が進むにつれて無言になってくるのは周りが「ライバル」になってしまうから。
 
5)芦田氏は<「学び合い」教育のレフェランスは、“全国試験”では「平均より上」どまり。しかもこの“全国試験”には中の上以上の進学校は参加していない。>いうが、これは公教育である限界だが、公的な教育の成果を計る最も母数の多いのは全校学力検査しかない。そもそも「塾」で能力を身につけていることと、公的な学校教育の成果を比べること自体がナンセンスである。