学者と教師

多くの学者は現場を知りません。それを否定するのではなく、だからこそ純粋に理論を語ることができます。多くの教師が「分かんない」と思うのは当然で、それは純粋に極めるほど「その言語」は現場とはかけ離れて行くからです。
 
私が「授業で語りましょう」というのは、授業というのは「教師」にとって「共通の言語」だからです。これまで様々な大学の教授方と授業を見せ、話し合いましたが、やっぱりどこか論点がずれます。現場は様々な「不確定要素」が入り込みます。理論通り実践できることなどありません。
それは薬の開発と同じです。理論的には効くはずなのに、実際に人間には効かないということなどざらです。
 
じゃあ、学者の話はいらないかというと、私たち教師の向かうべきベクトルを示してくれるという点では絶対的に必要なものです。だから純粋に理論を積み上げればよいと思います。
 
でも、その理論そのものを現場に落とせるかというとそんなことありません。実際に1週間もやれば、自分の理論がそう有効に働かないことが分かります。ある授業法を提唱する学者が実際に授業をやってみて、目も当てられないような授業になったのを見ています。それでも学者は自分の理論を押します。「理論は正しい」と。
 
そんなものです。私たち教師は、理論に耳を傾けることはあっても、それを常に客観的に見ることを忘れてはならないと思います。それは「学び合い」にしてもです。「学び合い」にすぐに傾倒して、全面的にそれを受け入れることを私は勧めません。やるにしても、どこかおかしいんじゃないか、自分が見えていないところがあるんじゃないかと考えるべきです。
 
その迷いを解消できるのが「共通の言語」を持つ同僚の言葉なのです。学校内にそうした同僚がいることが最も良いことです。ですから学校内で孤立せずに、同僚と常に議論できる環境を作るべきです。そして仲間を作るべきです。そうしたことが難しい人のために「学び合い」の会があるのだと思っています。分からない人は、「学び合い」の会にどうぞ参加してみてください。