在り方とは? また

「教師は在り方なのである」
では我々教師はどうすればよいのでしょうか?
 
僕は教師が教育というものを授業を通して見えるようになるためには、約1万時間必要だと何度か言ってきました。我々は年間約1000時間ほど授業しますから、これには10年ほどかかることになります。教師としての実践が花開くのが30代前半なのはこうした理由です。(もちろんその数値に前後はあるけどね)
 
でも、ここで疑問に思う人もいますよね。10年以上経験した教師が必ずしも優れた実践や経営をすることが出来ている訳ではないと言うことに。30年教師をやっても(つまり3万時間もの授業を重ねても)うまく行かない人はうまく行きません。それはなぜなのでしょう?僕はそこに秘密があるんだと理解しました。
 
僕は教師とは最初から教師なのではないと考えています。教師は学校で子どもや同僚を通して「本物の教師」になるのです。最初から教師としての「在り方」なんてあるわけありません。1万時間で何をどのように積み重ねていくかが教師の育成の鍵を握ると考えています。僕はこの1万時間の中に2つの取り組みを積み重ねることができたかどうかが、非常に大切になると考えています。
 
1つ目は「子どもの姿に学ぶ力」、そして2つ目は「教育哲学」です。
 
「子どもの姿を学ぶ力」とは、授業はもちろんのこと、子どもを有能な存在として認め、その「存在」を我々教師と対等なものとみなして、子どもらから学ぶことができたかということです。
 
「教育哲学」というのは、学校とは?教育とは?そして授業とは? 教育のあるべき姿を、未来像を同僚や仲間とどれだけ話し合ってきたかという積み重ねと言えます。
 
こうした積み重ねが教師を本物の教師に育てていきます。逆にそうした積み重ねがないままどんなに年齢を積み重ねても、教師としての在り方は生まれてきません。そして在り方がないまま、子どもを動かそうとすると、力ずく(それは時に脅しで)で、そして規則で子どもをがんじがらめにしていくことにつながっていくのです。