在り方とは?

僕はよく「在り方」という言葉を使います。たくさん使うのでリンクはのせないので、興味ある方は上部でこのブログのワード検索してみてください。
 
この「在り方」というのは、他者にとって分かりにくい言葉であることは十分に承知の上です。でも他の言葉に置き換える国語能力を備えていませんので「在り方」としか、言いようがありません。それでも、今回はもう少し、この「在り方」について書きます。
 
僕のクラスの子どもたちはそれほど本を読みません。もちろん、平均的には読みますけど、大好きで仕方がないというほどではありません。それはなぜかというと、僕がそうだからです。
 
僕のクラスの子どもたちは、みんな持久走が速く、そして縄跳びはそれほど上手ではありません。それは僕がそうしているからです。
 
僕のクラスの子どもたちは、学級活動が大好きです。僕が大好きだからです。
 
僕のクラスの子どもたちは、理科が好きです。僕が好きだからです。でも観察は苦手です。僕が苦手だからです。
 
僕のクラスは、あいさつはほどほどです。僕がほどほどだからです。
 
小学校のように学級担任制であればこうした傾向は大変強くなります。子どものモデルは教師なのです。教師が一つ一つの物事にどのように対処し、どのような言葉を発し、どのような態度を取るのか、子どもたちはじっとその姿を見つめています。これは中学校でも同じです。
 
教師が本気で勉強が大事だと考えていれば、子どもは黙っていても勉強します。学び合うことが本気で大事だと思っていれば、子どもは学び合うのです。ここにテクニックはありません。テクニックとは、それらをよりよく促進させる促進剤なのであって、根っこがなければ促進はされないのです。
 
僕が震災で、初めて会った100人の子どもたちに「勉強しようぜ!」といって、みんながすんなり勉強したのでは、僕が勉強が大事だと思っているからです。
 
つまり、教師が本気でそうしたいのか、口先だけなのかを子どもたちは見抜いて動いているというのとなのです。本気で言葉を発している教師には、その通りに子どもたちは従います。だってついていけば自分が伸びるということを直感できるからです。でも口先だけの教師の言葉はすぐに見破られ、失望し、恨んでいくことになります。
 
ですから、学校とは教師の姿、つまり人間としての在り方が子どもにそのまま反映されていくということなのです。これはとても怖いことでもあるのです。ですから、その在り方が定まっていない人は、小手先のテクニックや力で子どもをコントロールしようとしてしまうことになるのです。
 
では我々、教師はどうすればよいのでしょうか? 本物になればいいんです。 次回はそんな話を。