始めから「教師」なんていない

今日話したことをメモ
 
僕の2回目の教育実習(僕の出た大学では3年生で附属、4年生で一般公立校で行います)は昭島市でした。今日、電車で昭島市を通過したときにある出来事を思い出しました。4年生の実習では昭島市の小学校に配属になったのですが、そのクラスに、毎日、毎日僕の足をおもいきり蹴飛ばす女の子がいました。2週間毎日です。残り一週間になったときに、たまらず僕はその女の子を叱りました。それいらい、その女の子は僕とは距離を置くようになり、最後までその距離感は縮まりませんでした。
 
今ならば、その女の子は僕に向かっての愛情表現の変化球だと理解し、さらに変化球だけではなく、直球も投げられるように導いてあげることができるかもしれません。しかし、その当時の、ましてや大学生である僕には力はなく、「痛い」「不愉快」の方が先行して、子どもの球を見事に打ち返してしまい、子どもを敗戦投手にしてしまいました。
 
教師は、教壇に立って始めて教師になるのではなく、子どもに育ててもらうことで教師になるのです。始めはただの若い「お兄ちゃん・お姉ちゃん」にすぎません。でも授業を進め、子どもと向き合い、また数多くのこうした失敗を屍を踏み越えて、教師になるのです。ですから誰でも始めから教師であるわけではないのです。
 
しかし、こうした出来事と自分を付き合わせていける人は、教師へと成長していくのですが、そうした出来事から距離を置き、そして、その理由を子どもに求めるのであれば、教師になるまで時間がかかります。ひょっとすると、退職になるまで教師になっていない人もいるかもしれません。
 
私たちは「子ども」に教師にしてもらうのだということを忘れてはいけないのです。