教師とは孤独を愛する仕事

最近は、現場でもチームティーチングで行うことが多くなってきています。しかし、授業の9割では教師が一人で授業をすることになります。また、瞬間的な判断、そして行動はやはり「自分」なのです。そこに責任を持つ力のない人を教師とは呼びません。
 
教師は孤独な仕事です。僕のクラスでは子どもたちが、協働や共同といった形で授業を進めていますが、そこにいる自分は決して子どもの共同体の中にいるわけではありません。というか、その共同体の中にいてはいけないのです。
 
子どもたちから離れ、客観視できる力がなければ、子どもの状況を判断し、流れを読み、そして対応することができません。教師というのはそうした孤独な環境におかれる仕事なのです。その孤独を受け入れる腹が据わっているかどうか、そこが教師と教師でない人を分ける境界線なのだと僕は考えています。
 
また、子どもはどんどん成長していきます。私たちは仕事の面では「歳」を取りません。私たちの心ははずっと学校という箱に閉じ込められたままなのです。40年近くね。子どものまぶしいくらいの成長を横目に、それに取り残されていく孤独さもまた、受け入れていく必要もあります。
 
教師になるということはこうした「孤独」を受けれていくことでもあるのです。若いうちはそんなこと考えないかもしれません。子どもとの年齢が近いからです。でも保護者の年齢に近づき、最後には祖父母の年齢となります。人生の老いを受け入れるのと同じように。
 
ただ、僕はこの「孤独」嫌いなわけじゃありません。孤独を受け入れたことで、僕は子どもたちを「みる」ことができるようになったわけですから。