そこに正義はあるか

若い頃の無茶っぷりは今から考えると思慮が足りない、知恵が足りない、配慮が足りない、したたかさが足りないと恥ずかしくなることばかりです。でも今の自分の「かしこさ」が嫌になることもたくさんあります。
 
配慮や知恵、そして周りへの気配りをどんどん入れていった結果どうなったでしょうか? 志は配慮すれば配慮するほどどんどん削り取られ、多くの配慮の結果、全く別のものに変身してしまうことが「多々」あります。
 
「子どものために」だったはずが、周りへの配慮、連携、準備などなどしているうちに、結局誰のためにやっているのか分からないような茶番劇に変身していまいます。そこに子どもの全力も、主体性もございません。
 
こうした「かしこさ」を持っているのが「学校」でもあります。が故に、擬似的な主体性は存在しますが、子どもが本来持っているような自由は、現状の学校では、むしろ「扱いにくいもの」として枠の外に追い込まれていきます。
 
私たちの仕事は、本来ならこうした角に追いやられてしまうような発想を実現させるべく、試行錯誤することにあるはずです。僕は「かしこく」振る舞う自分が大嫌いです。
 
年を取れば取るほど、うまく立ち振る舞ってしまう自分。もっと馬鹿でいいし、もっと人に嫌がられてもいいんじゃないかしら? 本気で正義を振るうと周りからは本当に嫌われます。それでも「かしこい」方々から「あいつはどうしようもない奴だ」と言われた方が本当はいいのかもしれません。
 
それでも正義の拳を、相手に配慮して引っ込めてしまう自分が常にいるんです。
 
えっ? ずいぶん勝手にやってるんじゃないかって? 
僕はやりたいことの1/5くらいしかやってませんって(笑)