「教師の思い通りに動く」ってとても大事

よく「それぞれの子どもがそれぞれの思いで学び、それぞれの思いで生活することが大事」なんて言われます。本当でしょうか?
 
もし、本気でそんなことをやったら学級は崩壊します。教室というのは極めてパブリックな空間ですから、好き勝手ができる場所ではありません。「教師の思い通りに動かなくてもいい」というのは「やりたくないときにはやらなくてもいい」という保障を子どもに与えることになります。公的な教育機関でこれを本気で保障するのは容易でないことは誰でも分かると思います。
 
また、子どもたちが主体的に動いているように見える教室(これは自分のクラスもそうなのだけど)も、よく観察するとその主体性というのはその場を作る教師の理念の支配によるものです。
 
例えば「○○な時には○○のように考えて動くことが大事なんだよ」ということを教師が子どもたちと向き合って話していくことで子どもたちはその理念を受け入れ、そうした行動を基盤とするようになります。ですから教師の思い通りに子どもが動くという姿は極めて当たり前なことなのであって特別なことではありません。教師の思い通りに子どもが動かないから学級が崩壊するとも言えます。ヨーロッパなどでも映像を見る限り(本当のところはよく分からないのだけど)、教師は子どもたちに学び方や物事への向き方をよく話し込んでいる姿を見ます。
 
私は「子どもらしさ」とか「それぞれの思い」なんて分からないし、分かろうとしても25人もいればそんなの分かるはずがないとも思っています。私たちが保障できることは目的に向かって、自由なアプローチを保障するということであって、好き勝手させることではありません。
 
では何が問題なのかというと、教師が「子どもをどう育てたいか」「どんな子どもに育って欲しいか」という像がそれぞれの教師がバラバラであることと、そうした像を「造る」という話し合いが学校現場でほとんどなされていない現実です。多くは校長や学校目標に掲げられる子ども像はどこの学校でも示されていますが、結局、教室という場を造り、支配するのは教師ですから、それぞれの教師の持つ子ども像を付き合わせていかない限り「学校として」子どもを育ていることが難しくなります。また子ども自身も教師が代わる度に教師の意図を汲まなければならなくなります。
 
こうした話し合いが日常的に行われている(そんな学校は日本にはほとんどないのだけれども)が真の意味で「子どもを育てる」学校なのだと私は思います。
 
追記
僕のこれまでの経験では教師はこうした話し合いが嫌いではありません。そうした場が設定されていないという単純な問題です。つまり学校のマネジメントが悪いということです。