真面目=よいではない

佐藤学さんは以前東北の先生について「悪い意味で真面目な教師集団」だと言います。また私が東京で教育実習をしていたとき国語実践では著名な先生から「東北の研究会に参加したけどまだあんな古くさいことを言っていているのを聞いてびっくりした」と言われました。2つの面で真面目さは、この成果に必ずしも大事ではないのです。
 
教師という仕事は無限です。「限りなし」なのです。どこかで切り捨てないと家庭が崩壊します。時に子どもがいないとか独身だとか、子どもが大きくなって手がかからないとかそうした人が、通常の勤務時間を超えて夜の9時、10時まで仕事をする方がおります。でもそのレベルで仕事ができる人は、上記のような家庭環境か、家庭のほとんどの仕事を嫁さんに任せて仕事をしている男性教師です(今は逆もあるかもね)
 
また、真面目さというのは逆に新しいものを取り入れにくい、考え方をなかなか変えられないということにもつながります。上記の佐藤学さんが述べていた意味はそういうことです。新しいことを行うにしても「これまでのこと」と矛盾しないようにと考えていくのでどんどんやることが雪だるま式になります。
 
こうして公務も授業の肥大して「余計なこと」を考える暇も無く仕事に帆走することになります。
 
しかし、この「余計なこと」にこそ、自分の授業を切り開くヒントが隠されています。仕事が忙しいほど、自分を振り返る余裕も無くなり、同僚にも厳しくなります。
 
子どもの安全面を除いて「いい加減さ」というのも教師の世界には大事です。何よりも「すき間」のない教室環境は子どもにとって居心地がよいものでしょうか? 子ども自身にも遊びを持たせるには、教師自身も「遊び(それは心の面でも時間の面でも活動の面でもね)」を持たないといけないのです。
 
真面目=必ずしもよい先生ではないということなのです。