学び合うことと織り重なること

職員室でこんな子どもの学び合いについてこんな話が出ていました。
 
「子どもの姿にだまされちゃうんだよね〜。一生懸命に説明してたり、説明を聞いたりして『分かっいるんだな』って思っていたら、テストやってみたら全然分かっていなかったもん。」
 
私もそう思います。だから
「私も子どもの姿は信用していないですよ。『結果』しか信用しませんもの。」とよく話します。これは子どもにも「しつこく」言います。
 
私はどの子どもも自ら学ぶことなんて空気を吸うように当たり前のことで特に感動するとか、偉いなと思うことは何一つありません。「どの子も勉強しているから素晴らしいでしょ?」なんてことを話したりしません。
 
上記のような場合は問題がいくつもあって、
「課題が学習の本質から外れている」
「評価が甘い」
「子どもの勘違いを教師が見取れていない」などなど。
 
子どもたちが学び合う学習というのは、実は学習の流れに対して余分な部分も巻き込み、絡めながら流れていくので、そこから「何が分かったか」を子ども自身が抽出し、分離するのはとても難しいのです。ここが大人と子どもとの脳の構造の違いなのです。教師は子どもが分かったつもりでいるように見えるけど、実は分かっていないというのはそういうことなのです。
 
そういうことが分からないまま、「子どもの姿」に感動して学び合いの学習を推し進めても子どもの力は上がりません。現に多くの実践者は気がついているはずです。そしてそのレベルで留まっている限り、いずれ子ども自身が自分たちの授業の質の低さに気がつき始めます。広がれば広がるほどそれは顕著になるはずです。
 
「織り重ねる学び」の始まりは、こうしたことへの対策として子どもの学習の評価の確立と織り重ねていく学習で連続性を持たせるながら繰り返し学ぶことで子ども自身でも学習の内容を抽出、分離できるようにするということなのです。