「織り重ねる学び」とは何か?

このブログを訪れるほとんどの人にとって分かるような分からないような言葉だと思います。現在書けることを書きます。
 
まずこの話を説明するためには僕が現在に至るまでどのようにたどってきたかを説明しなければなりません。少し話が長くなると思います。実践グループのみなさんもよく読んでみてください。
 
 
 
僕が最初に「協働型」に舵を切ったのは15年ほど前になります。それまではいわゆる「方法」や「システム」というものにとらわれていましたので、能力別学習を導入してみたり、クロスカリキュラム(これはこれで後の大きな武器となるのですが)などの実践を試みていました。
 
その当時能力別学習で学年での算数実践を行っていたところ、教頭よりストップがかかりました。「どうして実践させてくれないのか」と当然のごとく猛抗議をしましたが、「そういうのではなくてもっと違うやり方もあるのでは・・・」という話でした。当然、私は「ではそのもっと違うやり方とは?」と聞きますが、明確な答えではありませんでした。「附属でやっているようなどの子も大事にできるような授業をした方がいい」そんな答えだったような気がしますが、そんなこと言われてもどうしようもありませんものね。
 
その当時は私が研修主任でもありました。その時には特別活動の東北大会の研究公開が控えていました。そこで多くの特別活動の実践や特別活動を活発に実践している郡内の先輩方の話を聞きながら、特別活動とは「子どもに任せていくこと」だ理解しました。協働型の実践はここから始まったと言えるともいます。ただまだ特別活動の中でしたけどね。でもこの当時の特別活動の研究が今の自分の授業のコアを形成していることは間違いないと思います。
 
その学校から研究公開の前年に移動するという大ヒンシュクなことをしでかしたのですが、移動先が先の教頭がおっしゃた、以前附属の副校長(実質的な校長)を務めおられた方が校長でる県内ならば誰でも知っている研究校でした。そこで出会ったのが佐藤学さんの「学びの共同体」の授業でした。当然、跳ねっ返りの私ですから多くの人とぶつかりながら、それでも同期の先生に助けられ、学び合い一歩ずつ理解を深めていきました。
 
4年でその学校を出ることにはなったのですが、4年目になって初めて自分でも満足できるような授業ができるようになりました。それまでの公開での授業は酷いものでしたが、研究公開では誰に見せても恥ずかしくない授業はできたと思います。今の自分でもできるかどうか分からないくらいにね。でもそれだけ授業がうまくなってきてもひとつピースが埋まらなかったのです。それは「どうすれば学び合うのか分からない」というものでした。つまり、研究教科の理科では、素晴らしい授業ができても国語では「沈黙」で撃沈することもしばしありました。なぜ理科ではうまくいき、国語ではうまくいかないのか説明できないのです。まだもう一つの疑問、授業の質に対して成績が上がらないという問題も抱えていました。平均値は超えているもののなんだかぱっとしない成績しかたたき出せないという問題がありました。
 
その当時、授業の仕組みを理解しようとして読んでいたのが西川純さんの「理科はなぜ難しいと言われるのか」という本でした。当時はまだ『学び合い』という言葉が出てきていなかったはずです。おそるおそるメールを出してみていろいろと相談させていただいた中で分からなかった「ピース」を発見でしました。それは「任せる」というごく単純なものでした。「学びの共同体」がうまくいく人といかない人はここに違いがあるのです。それを発見できたことが最も大きなブレイクスルーでした。
 
しかし『学び合い』を実践してみると、実はとても不安定であることも同時に分かりました。あるときにはうまくいかないことを子どもたちのせいにして責めてしまったり、子どもが子どもを教えることで子どもの中にトラブルが発生したりするなど、一つ一つを調整しながら、確かめながら実践してきました。
 
そして次のブレイクスルーを導き出したのは実は子どもたちでした。これによって「学び合い」がステップ2に移行できました。ここ5年ほど安定して学び合いができるのはこのおかげです。この話をぶり返すと、とてつもなく長くなるので気になる方は「ステップ2」で検索してみると出てくると思います)
 
そしてここ2〜3年で実践を進めてきたのはこれらを土台にしたステップ3というものです。学び合い型の授業でなければ到達できない領域にたどり着こうというものです。
 
私たちの実践している授業、「織り重なる学び」とはここの位置にあります。ここまでの膨大な授業実践と理論の蓄積、そして何度かのブレイクスルーがあってたどり着いた領域です。そしてここにもまた「カリキュラムの融合化」と「書く」2つの大きなブレイクスルーが存在します。
 
私はこの「織り重なる学び」が誰にでもできる授業だとは思っていません。「教師」しかできない授業だと思っています。教師だからこそできる授業、それが私たちのめざす立ち位置なのです。
 
 
このような流れがあってこの「織り重なる学び」が生まれました。
 
えっ、肝心な中味について書いていないじゃないかって? この流れがあるからこそ中味の話ができます。それはまた後の機会に。