「正論」なんていらない

「正論」大嫌いです。
 
例えば、子どもが学び合う授業と一斉授業。「どちらがではなくて、どちらも大事で学習や子どもの状況に応じた授業の進め方が大事」これは誰もが「そうだよね!」としか言わないまさに「正論」ですよね。
 
でもこの正論に何か意味はあるでしょうか? この正論はまさに「万能」でどんな授業のどんな場面でも使えます。「今日のこの場面は」「この単元では」「この授業では」どんな状況、どんな説明にもつかめますが、万能であるが故に何にもない授業にも使えちゃう言葉です。
 
それなのにどんなときのどのように上記の2つ指導を振り分けて使うか、誰も明確に答えを持っている人はおりません。
 
上記の言葉はこだわって実践して生きた教師の中に生まれる言葉であり、最初から大して深く考えてない人が使っていいものではありません。
 
正論というのは実践の積み重ねの中から生まれてきます。結果が正論になるわけで、何事にも最初から正論なんてないのです。だから一つ一つの実践を注意深く見つめていかなければならないし、日々軌道修正もしなければなりません。でもそうした中に実践の「確かさ」が生まれてくるものです。
 
私は「誰が」言っているかが大事であって、その人の態が正論となるのだと思います。