多様性

今日の授業で国語辞典を使っていました。「とる」という言葉の意味と漢字を調べていたのですが、ある出版社の辞典では【とる】「撮る」「取る」「取る」「捕る」「執る」①〜②〜③〜 ⑭〜 となんとまとめて書いてありました(笑) ただそんな時でもそれぞれが異なる辞典を使っていて、さらに自由に聞き合っているのであまり問題にはなりませんでした。
 
 
多くの教師は「統一」が大好きです。制服・靴の色・定規・教材・道具…。中には「○○でなければ絶対にダメ」と言います。また、学習の指導に対しても「個々の学び方」が保証されていることは滅多にありません。しかし、生物学で言うならば多様性が崩れるというのは、その環境が危機的な状況にあると言うことです。例えば、上記の辞書。全員がその辞典を使っていたら、全員「???」で終わっていたはずです。単純化というのは、効率性や量的なものを追求する上ではよいのですが一旦、その法則性が崩れると元に戻るのに大変手間がかかります。
 
学習指導も然り。学習指導法をマニュアル化し、その指導内容を極めていくことは、それはまるでファミリーレストランやファストフードのようなものです。確かに公的な教育機関というのであれば、県内、いや全国同じ味で同じサービスであることは一種の安心感を与えてくれます。しかし、それらを毎日食べて食に満足やこだわりは生まれるでしょうか?
 
私は学校の中にも、教室の中にも多様性がった方が健全だと思っています。「合わせる」ということは確かに安心感を与えますが、同時によさも(研ぎ澄まされた味も)消してしまうのです。
 
学校で言うならばそれぞれの教師の個性がとんがっていた方が健全ですし、それらを打ち消すのではなく、束ねてより高みに持って行くのが管理職の腕だと思っています。それは学級も同じ。私たち現場の教師は、それぞれの子どもの個性を最大限に見いだしながら、子どもたちがフルパワーで学べる環境を構築することが仕事なのです。
 
私は子どもたちに「あなたがこのクラスで一番輝けるものはなんですか?」と問います。「もしそれが思いつかないのであればこれから1年書けて見つけていきましょう。」と呼びかけます。