教師はプロフェッショナルであるべき

先日「フードインク」というドキュメンタリー映画を見ました。
http://www.cinemacafe.net/official/foodinc/

その中であるハンバーガーチェーンが痛烈に批判されていますが、そのハンバーガーチェーンがもたらした罪の一つが、食に大量生産型の工場システムを組み込んだことだと言います。
 
一人でハンバーガーを作り上げるのではなく、作業を細分化し、誰でもできるように作業を単純化し、作業効率を上げることで安く販売することができるようにした言います。それによって「誰でも」働くことができるようにすることができるようにしたこと、つまりやめた人がいても、すぐに次の労働者に変わることができるようにしたというものです。
 
この映画を見ていて、昨年芦田先生が来校したときに話し合ったことを思い出しました。芦田先生は、「子どもたちが勝手に学び合うというのなら、授業なんてそこらのおっちゃん、おばちゃんでもいいってことにならない?」
 
もちろん、私も古田さんも、それにはすぐさまに否定し、そんな生易しいものではないと反論しました。現に何もやっていないように見えるだけで、実は普通に教えるよりも遙かに疲れます。看取りながら状況を把握し、次の一手を考えるのですから、一方的に教えるよりも遙かに難しいのです。
 
私は学び合う授業がすぐに成立でき、維持できるのは2〜3%位しかいないのではないかと思います。中にはそれを直感的にできる人もいます。しかし、残念ながら私はその2〜3%の教師ではありません。日々努力していますし、まだ足りていないと反省することも日常的にあります。
 
私は自分も教師としてプロフェッショナルでありたいと願います。まだ見えていないところ、まだブレイクスルーできるであろうことが山積みです。もしも若い先生が、聞きかじりで子どもに授業を「ぶん投げて」いるとしたらそれは教師ではありません。そして、私には「そんなの努力は無理」というのなら教師を辞めるべきだとさえ思います。無理ならば無理しないで単純化された仕事を無理のなくするべきです。仕事をするということは「無理」を乗り越えるということです。その無理を乗り越えなければ、新しい食事のメニューも工業製品もサービスも生まれません。
 
でも、誰の支えもなく、話し合う人もいなければ「無理」は続きませんし、楽しくありません。「無理」という壁を越えられるのは一緒に道を歩む同僚であり、仲間がいるからです。同僚や仲間がいれば、「無理」という壁は「楽しみながら」乗り越えていくことができます。
 
子どもを育てるのなんてそんなに簡単な仕事ではありません。だって子どもの人生を決めていく極めて重要な仕事なのですからね。