授業の観方

私は若い先生と授業を観るときにはまず「授業の観方」を教えます。
まず私は他の先生と別のところを見ています。そのお作法があればどんな授業でもすぐにどんな授業か見破れます。
 
前にも書きましたが、私が今まで「怖い」と思った見方をしていたのは
iku-nakaさんでした。彼が授業を観ている場所はその授業の要の部分でした。
ですから一緒にいるfuruさんにも最初の1年で授業の観方を徹底して教え、
今自分は何を見ているのか、何が起こっているのか、そして今後どうなるのか
彼に教えてきました。今では彼の授業を観る力は一級品です。
 
どこを見ているか?
 
私はまずは子どもの目線を追っています。出だしから。出だしの子どもの目線でまずそのクラスがどのようなクラスなのか、その教師は普段どんな授業をしているのかが見えます。次に子どもの体の力の入り方を見ます。それでその授業がどんな授業なのか見えてきます。そして、子どもの声のトーンを感じます。興奮しているのか、冷静なのか、深化しているのか。
 
これらはビデオ映像や音声を起こすだけでは解析できません。人間の脳はコンピュータと異なって、こうした情報を一元的に集約して瞬時にその状況を判断できる能力があります。ですから、役割分担でプロトコルなんかをとっているとその授業がどんなものなのか逆に見えなくなってしまいます。
 
これは「学び合い」の授業でも同じです。同じ授業を観ていても私やfuruさんは別のことを感じ考えています。ですから授業が終わってもほぼブレなどなくどんな授業だったのか話し合えます。
 
でもこれは逆に考えると怖いことでもあります。下手すると同じ授業を観ていても全く逆の見方をしている可能性があるからです。
 
ではどうすればよいか? これは「学び合い」の授業を日常的に手厳しく授業分析する(される)必要があります。ここのブログを書いているメンバーならばなおさらです。ここから逃げているうちは、ただの自己満足で終わってしまうことでしょう。
 
芦田先生のような反「学び合い」の方を受け入れたのもこうしたことからです。芦田先生の主張には同意できな部分も多々ありますが、彼の指摘した欠点も「学び合い」には大事なことばかりでした。(と同時に「よく授業を観ているな〜」とも感心させられました。あれだけ自信ありげに話すだけあって、素晴らしい「目」の持ち主でもあります)こうした苦しさを乗り越えていかないうちには、ずっと「かくれ学び合い」の実践者でいるしかなくなります。
 
「授業の観方」の弱さは、直接子どもに「被害」が生じてきます。子どもが学び続けられない、授業中に脱線する、課題を達成できないというのには「信念」とは別に必ず理由があります。「テクニック」などで「学び合い」が広まってもそれをきちんと補正できる、間違いを指摘できる人はどれだけいるでしょうか?これを大事にしない限り、多くの授業方法と同じように「学び合い」もまた流行の授業方法で終わってしまうことでしょうね。