そぎ落とす

よくfuruさんが「そぎ落とす」という話をしますね。今日は私が。
 
若いうちはいろいろな手法・方法・手だてを学びます。それはもちろん私もそうしてきました。たくさんの「授業方法」から「学校公開」、そして同僚の授業研究まで、幅広く学びました。そしていろいろとやってみました。結果、何にも続けられるものはありませんでした。
 
若い先生にとっても「学び合い」という授業は非常に魅力的に映ることでしょう。そして、その「方法」を学ぶことでしょう。しかし、そんなもので「学び合い」は継続できません。というか、どんな授業形式であろうともうまくいきません。保証します。「ファシリテーション」も「ホワイトボード」の授業も同じです。それを「やってみた」という人は、「どの教科」「どの時間でも」それをやっているでしょか? やっていないとしたら今やっているそれを使った授業もいずれやらなくなります。
 
これは「学び合い」でも同じです。全教科で全時間やれるかどうかです。もし特定の教科だけであったり、特定の時間だけであったりするならば、それは「学び合い」ではありません。手法を追っているだけです。
 
そんな人ひとに限って「いろいろなやり方を学んで場面によっていろいろと使い分ける方法が最もよい授業だ」なんていいます。しかし、実際の授業は子どもの意図とはずいぶんかけ離れたものになっていることが多くありませんか?
 
私は理系でもあるのでどんな要因が授業を成立させているのかとても興味がありました。そこで一つ一つ今までの鎧(手法・手だて・技術)を脱ぎ捨てていきました。そして最後に何が残るのか? 怖いことに「課題」さえも、実は子どもが学ぶための要因でないことに気が付きました。
 
びっくりすることに最後に残ったのは「おまえたちは勉強しろ!」という教師の明確な「意志(成し遂げるという強い意識)」だけなんです(笑)
 
「そんな馬鹿な!!」と思うかもしれませんがそうなんです。おそらくこれは全ての授業方法に共通のことなんです。
 
まあ、この意味が分かる先生はすごく少ないと思います。furuさんは一緒にこの「脱ぎ捨てる」という恐ろしい授業をやっているから胸を張って言えるんです。