コマシラバスでは救えない

「学び合い」についていろいろ批判をいただいておりますので「コマシラバス」について批判があってもよいでしょう(笑)
 
まず「コマシラバス」これはさも新しい言葉のように見えて、実は小学校の教育界でも数十年前から実践されてきています。すごい「学校」になると子ども一人一人のつまづきや課題、到達点まで仕組まれています。
 
「学校」というはなぜかというと、それは名の通った研究校だからです。個人レベルではどうにもなりません。小学校教師ならば、全教科、全単元、全時間、コマシラバスを作るのにどれくらいかかるか想像できると思います。そうです。授業時間以上にかかります。はっきり言って20代の教師には作れません。(まあ、同じ授業を5〜6時間するとか毎年同じようなカリキュラムだというなら可能かもしれませんが)個人レベルのでは太刀打ちいきません。
 
しかし、研究校だと「公開する」授業だけは全単元でこうしたものを「気合」で作ることができます。「みんな」で午前0時近くまで仕事をしますから。そして公開の時にはそんな「コマシラバス」をCDーROMなどで配布したり販売したりしています。
 
さて、問題はそんな評価が明確になった授業でしっかりと学習しているかということです。答えは「しているクラスもあるし、していないクラスもある」です。つまり教師がそんなものを作る、作らないは子どもにとってどうでもいいことなのです。
 
むしろ、子どもそのものがきちんと勉強もできていないのに事後研究会では、いかにその評価システムが優れているかを説明するだけに終わっている教師の姿が目立ちます。最悪パターンの言い訳です。最後の決まり文句は「いや、うちのクラスはちょっと問題のある子どもが多くて大変なんです。」の話がでてきます。
 
こんなもので子どもが学習するようになるなんて「幻」です。これは、「〜をすれば「学び合い」はうまくいく」と同じレベルの話です。うまくいきません。保証します。
 
最初に言ったようにこんなものは、すでに何十年も前からあります。それがなぜ広がらないのか、そしてなぜ正当に評価されてこなかったのかということです。効力がないからです。
 
これは「学び合い」も同じです。どの子どもも救わなければいけないと思う教師の姿と知恵があるから成り立ちます。「コマシラバス」でうまくいくのは「コマシラバス」で救われているのではなくて、教師の「向き方」で児童や生徒が救われているということです。
 
じゃあ、無計画でいいのかというとそんなことはございません。そもそも教師が無計画で子どもが勉強するはずなんてないのですから。「学び合い」の考えはまずは「子どもを学ぶ舞台に上げること」を前提にすることです。これなくして評価だのコマシラバスだの言っていても何も始まりません。
 
その上で、教師は単元計画や子どもの躓き易さ、課題に軌道修正をかけていくべく勉強すべきです。これは20〜30歳までに徹底的に鍛えるべきです。
 
追記
芦田先生のみた「無計画」の授業というのは全単元をすでに終えた3年生の子どもたちが二元連立方程式つるかめ算)をやっているんですものそりゃ「ばらつき」がでるし、無計画に見えるでしょうね〜(まあそんな授業見せた方が悪いんだけどね) だって無計画・無評価のひどい授業の子どもたちがNRTで(もちろん、それに合わせた勉強はしていません)59近くいくわけないでしょ(笑)
 
追記の追記
繰り返しますが、コマシラバスが「必要ない」とは言いませんし考えてはいません。1時間ごとのゴールも考えないで授業をするのは愚かです。でもその前に「全員」を授業という舞台に上げてからの話でしょ? ということです。