方法

「在り方」とか「信念」とか言われるから、学び合いがうまくいかない人が苦しむことになる。
 
本当でしょうか?
 
「こうすればうまくいく」
「このようにやれば子どもを引きつけることができる」
「この方法でいけば誰でもうまくいく」
「最初はこうすればいい」
 
このような言葉は確かに人を引きつけます。
そして「敷居」を低くします。
私はこれを否定しません。そうした入り方は確かに大事です。
だから「はい、どうぞ!」も私は大事だと考えています。
でもそこで終わるようだったら授業なんてうまくいきません。
 
例えば「レッジョエミリア」。
方法論であの教育は推進できるでしょうか?
例えばイエナ教育。
ただ縦割りで子どもの授業をすればよい効力が生まれるでしょうか?
例えばモンテッソーリ教育
モンテッソーリ教具を使えば、モンテッソーリのめざした子ども像にちかづくでしょうか?
 
方法にこだわることでその理念そのものが吹っ飛んでしまいます。モンテッソーリ教具にしても今では十分に古い、そんなのどんどん新しいものを取り入れればいい。なのに「これを使うことがモンテッソーリ教育なんです」なんて話さえ聞かれます。
 
私も自分の方法になって自信はありません。結果が生まれればよい実践であるし、結果が生まれなければよい実践ではないというだけです。
 
芦田先生が来校された時にとても大事な話をいただきました。
 
「はい、どうぞ!」でよいなら、
教師でなくてもそこらのおじちゃん、おばちゃんでもいいんじゃない?
教師でなければならないことは何なの? 
 
もちろん、そこらのおじちゃん、おばちゃんが「はい、どうぞ!」なんて言っても子どもなんて動くわけないですよね。
子どもが「はい、どうぞ!」でなぜ動くのか、なぜ動かないのか我々は真摯に考えているでしょうか?
 
それは方法が悪いでしょうか? 私は「NO」です。子どもは教師の腹をちゃんと読みます。子どもはそれほど馬鹿じゃない。この教師は何を考え、自分たちをどうしたいのかをその動作、言葉の強さ、仕草、視線から読み取ります。その「合意」ができたときに子どもは動くのです。だから「学び合い」なんて授業は、始めるのは簡単でも、持続させるには実は最高レベルに難しいんです。
 
芦田先生へ答えは「教師だから「はい、どうぞ!」で動かせるんです」
ということです。 
方法から入ることもとても大事でしょう。でもそこに教師としての「在り方」を乗せていかない限り、必ず持続はしません。「必ず」です。
持続できている教師は、授業が破綻しない教師は、必ず教師としての「在り方」が言葉の中に、姿の中に組み込まれています。
 
このように書くと「在り方」なんてどうすればいいの?と言いたくなることでしょう。私は子どもたちに真っ正面に向き合うことと、仲間との対話でしか在り方を見つけられないと思います。私だって10年以上さまよっています。1〜2年で見つけられたら天才教師です。そんな人は私が知る限り数百人に一人くらいしかいません。だから私は職員室の多くの先生ととにかく馬鹿話から真面目な授業論から生徒指導までたくさん話をします。時には2時間ほど話し込むこともあります。それが自分という「在り方」を作ります。こうしたことを疎かにして「在り方」なんて生まれません。在り方なんて最初からあるものではなくて、真摯に歩んできた道筋が、真摯に歩もうとする姿が「在り方」になるのです。
 
方法「だけ」を追えばどんな教育方法でも必ず破綻します。私はもっと教師はもっともっと哲学者のように悩むべき仕事だと思っています。私も毎日悩んでいます。だから苦しいし、楽しいのです。
 
追記
上記を読んで「じゃあ、若い先生はどうしようもないじゃん!」と思われるかもしれませんね。でも子どもへの向き方が真摯であればちゃんと子どもはついてくるものです。きちんと向き合おうとする姿が子どもを引きつけます。、またその若さがその力の無さを補ってくれるものです。だから小手先に走らず、どうして自分は教師になったんだろう? 自分は子どもをどう育てたいのだろう? と考えていくが一番の近道なのだと思います。繰り返します。方法から入ることを否定はしません。それが大事だと思います。その間口を通して「自分」というものを子どもたちに示していかなければどんな方法でも失敗してしまうという話です。