教師の在り方とは?

なっつさんやnaotakaさんが教師の在り方についてコメントされています。読んでみてそういえば私もよく、「最終的には教師の「在り方」だと思う」とか「信念が大事」という話をこれまでしてきたなぁ〜と思います。私なりに少し話をまとめてみようと思います。
  
私が学びの共同体の研究校に転勤した時のことです。当初、周りの方々が何を言ってるのか分かりませんでした。非常に抽象的なこと(波紋のように広がるとか、さざ波のようにとか)ばかりいうので「じゃあ、どうすれば私の授業は学びの共同体になるのでしょうね?」と聞いてみると、それはもっともっと授業を重ねて、子どもの言葉に耳を重ねて、他の先生方からも意見を頂いて・・・ 
 
「だ・か・ら・具体的にどうすることが学びの共同体の授業なんですか?」
 
この時点で周りの先輩はぶち切れて、その後素敵なお説教を数ヶ月に渡っていただきました(笑) そんな自分も翌年になって転勤されてきた先生方に「どうすればいいの?」と聞かれると確かにうまく答えられません。方法じゃないと分かり始めたからです。
 
研究校でさえ「学びの共同体の授業とはこういうものです」と授業できるのは約半数の先生です。半分の先生はどうしても考え方を受け入れられない「ただの丁寧な授業」で終わってしまいます。よく観察すると新しい考えを受け入れる先生と受け入れない先生の違いは何かというと子どもへの立ち位置なのです。やろうと思っても自分の立ち位置を変えない限り、どんな実践をしてもうまくいかないのです。芦田先生のFDにしても同じことが起こることでしょう。
 
芦田先生も「どの子どもも救いたい」「経済格差によらない平等な教育」という信念があの言動を生みます。西川先生も同じです。
 
以前の研究校でもそうした信念のない人は学校そのものが嫌いになって2年もすると転勤してしまいます。私がいう「信念が足りない」はここからきます。でも決して人間そのもののを否定しているわけではありません。「あなたはダメなのよ」という意味でもありません。「学び合い」を信じる心が足りないのでもありません。
 
でも、私は一人の人間として、成長させたいと思う子どもたちに向き合う時に、信念がなければ教師であるべきではないとも思います。この子どもたちを本気でどうにかしたいと思うならば、方法など関係なく、どんなものでもうまくいくようになります。
 
その信念が「教師の在り方」を生み出します。深い思慮もめざすビジョンもない教師がどんな方法をとっても子どもはついていきませんし効力もでません。
 
課題の研究・初期には・問いかけ・評価・・・ 「学び合い」にしてもどんな方法をとっても教師である限り、最終的に自分の在り方に必ず戻ってきてしまうのです。どんなに優しく、どんなに分かりやすい説明をしてもうまくいくことなんてないんです。
 
目の前の子どもをどうしたいのか? どれくらい本気でそうしたいと願っているのか? それが教師を形作ります。だから「学び合い」なんて授業はすごく難しいに決まってるんです。本当に毎日悩みますもの。でも教師ってそれでいいんじゃない?
 
それが教師の「在り方」。私はそうとらえています。furu-tさんの実践がぐぐっと変わったのは「在り方」が変わったからなんです。彼もこのブログに書いてることの意味がよーーく分かると思います。ねっ!
 
追記
1.ちょっと加筆しました。

2.なっつさんの言ってること、naotakaさんの言ってることはとてもよく分かります。私もそう思います。否定している話ではなく、補足している話です。