福島が試されること

こんなにも国や県はひどいものなのかと本当にびっくりします。
おそらくこんな災害が起こらなければ私は「そんなこと」をネット上の記事の一つとして軽く考え、一生を終えたことでしょう。
自分がなぜ教師をしているのか、なぜ福島県にいるのか、自分はどう生きるべきなのか、自分はひょっとしてその岐路に立っているのかもしれません。
 
私のここ数年の課題は「日本の教育を変える」ということでしたし、「学び合い」でこれをこじ開けようと藻掻いてきました。そして、ようやく一筋の光も見えてもきていました。逆に限界も感じていました。「学び合い」が全てではないにしても、新しい教育を創ろうとする動きがあまりに見えません。いつまでもマイノリティーです。
 
この状態と今の福島の状態が私の中では重なります。これだけ国や県にひどい仕打ちを受けながらもずっと黙っている、いや「黙っている」ならばまだましで、自分がひどいことをされていることさえ理解できていない子どもと福島県の人々がオーバーラップします。
 
自分たちの福島の未来を創るのは、国や県という行政ではなく、我々自身なのです。
 
授業でも子どもの未来を創るのは学校や教師ではなく、子どもたちなのです。
 
今の福島県の状況を作っているのは誰でもなく「我々」なのです。まだ点ではありますが、声は上がりつつあります。その声はキャズムを超えることができるでしょうか? キャズムを超えたときに始めて我々の福島県になることでしょう。
 
この災害は神がもたらした試練なのかもしれません。我々は変革できるでしょうか?