あらためて「学び合い」が大事だと感じたこと

 
最近少しネガティブな書き込みになっていました。反省ですね。
今回の件を通して、あらためて「学び合い」が大事だと感じた とつぶやいたのですが、まだ書いていませんでした。
 
 
私が学び合いに積極的に取り組んだのは以前紹介した「私のばかおに」の子どもの姿です。そして、「学び合い」に移行したのは、卒業した3人の不登校の子どもです。
 
どの子どもも能力的、家庭的に十分に学び、生活できる子どもたちではありませんでした。自分の授業の「在り方」におぼれていた自分は、子どもの「やりたいこと」さえ手のひらの上でコントロールしていい気になっていました。そしてその未熟さも自分では見えないように隠していました。
 
しかし、上記のような子どもでそれが露呈してしまいました。私の「学び合い」の原点は「どの子どもも学習に向かわせる」です。家庭的に恵まれなくても、能力的に遅れがあっても、発達障害があっても、どの子どももみんなと学べることを保障することです。
 
私は、子どもの能力は同年代で切ればみな平等ではないと考えています。ある領域の発達が遅れている子どもも、複数の領域が遅れている子どももいます。また、逆に同年代の子どもと比べて遙かに発達している子どももいます。公的な教育現場ではこうした子どもたちが混在し学んでいます。
 
私は「学び合い」で「どの子どもも舞台に」上げます。ここについては教師生活で生涯これを覆すことはありません。これなしに「私の」授業はありあません。それがどんなに「情緒教育」と言われようと。
 
子どもの育ちを伸ばす教育は、授業は、教育システムはいくらでもあることでしょう。それをいまさら私は批判しようとも思わないし、それぞれの在り方で成功されることを単に願うだけです。
 
私は「どの子どもも舞台に乗せる」 授業ってそこからだよね。と私は考えます。上記のような子どもを二度と出したくないのです。私はただただ「学び続けられる」子どもを育てたい。
 
あらためて自分がなぜ「学び合い」なのかをもう一度再確認できた1週間でした。