どの子も学ぶ「学び合い」とは

「学び合い」に評価をねじ込んでも、一人一人の達成度を、一人一人の問題点を洗い出しても、子どもが救われることなんてありません。
 
何度か書いたように子どもを学ばせるのは「教師の在り方」です。こういうことを書くと「そんなこと言われても「在り方」なんて曖昧で、誰にも分かることではない」と言われます。
 
でもそんなものです。これを芦田先生は批判することでしょう。でも芦田先生を取り巻く方々は何に惹かれているのでしょうか? 理論ですか? 違いますよね。芦田先生の「在り方」に惹かれているのです。
 
これは「学び合い」を実践する先生方が西川先生の在り方に惹かれるのと同じものです。
 
これは私たち教師も同じです。学級を崩壊させる教師も、テクニックはそれぞれ持っています。でも、近くで子どもとのやり取りを見ていると子どもへの「向き方」が反れていることが分かります。
 
子どもも大人も実は「テクニック」や「方法」「理論」などは理由付けに過ぎず、実は人のとしての成りを見て、人との関わり方を判断しています。それは例え小学校1年生でもです。
 
私のクラスに来る先生方にも子どもたちの対応は一人一人変わります。子どもは軽くジャブを入れながらその人間性を試します。それでこの人間は自分を受け止めてくれる人だと思うと、ストレートパンチを放ちます。「学び合い」とは何か? と言われれば「ここ」なんです。本気で学びに引き込むには、場の設定でも、明確な課題設定でも、優れた教材研究でもないのです。
 
学んでくれるかくれないかは「教師の在り方」が大きな要因なのです。
 
研究校で実践していると分かりますが、同じことをやっていても、方や素晴らしい授業に、方や悲惨な授業になります。授業は方法やシステムの問題ではないのです。
 
単純に「学び合い」に評価システムを組み込めば、どんな子どもでも救えるような話を聞きますが、突っ込みはいれませんが「あらら〜」と感じます。おそらく「自分」はうまくいくでしょう。でもうまくいくのは「評価システム」なのではなく、そうしたものを入れ込んでもっとよい学びをしたいという「教師に在り方」なのです。そこが分かっていないと、空回りすることでしょうね。
 
「子どもを救う」ということはそんなに簡単ではありません。自分の手を離れても学び続けられる子どもを育てるのですから。今持っている自分の能力の全てを子どもにぶつけていくのですから。
 
それが私たちの仕事だと思います。もちろん、授業での評価をないがしろにしてもよいとか、順番とかの話ではありません。あしからず。