芦田先生批判を受けて参観者はどう見たか?

芦田先生の参観後に昨日と本日に分けて2名の方が参観され、朝から夜まで本校で授業を参観、話し合いを行いました。非常に密度の濃い話し合いをしました。私も話をしていく中で新たに気がついたことがたくさん出てきました。ありがとうございました。その中の1名から、芦田先生の批判と比べて、本クラス、furu-tさんのクラスをどう見たかについてメールを頂きましたので、ご紹介します。予めお知らせしますが、「私はどちらが正しいとかではなく、できるだけ客観的な目線で見させていただきました」と話してくださいました。
 
なお、このグダグダの批判合戦に巻き込みたくはないので、参観者は匿名です。「学び合い」グループの方でもありません。 

 
<芦田先生との議論について>
芦田先生のブログを読んで、芦田先生のおっしゃることはもっともだと正直感じていました。しかし同時に、どこかに誤解による議論のすれ違いがあるのではないかとも思っていました。特に「評価」の部分です。以下参観し話を伺って理解した点です(下線部はお二方の議論)。理解が間違っている点があればご指摘下さい。私の理解が間違っていなければやはり誤解があるのではと思います。

1)芦田先生の毎時ごとのリファレンスを明確にした授業とは、西川先生の提唱する「学び合い」の典型的な授業の形態に近いものです。1時間で到達する目標を明確にし、全員の到達を目指すという極めてシンプルで単純な授業です。一斉型の授業では下位の子どもは「どうでもいい」とか「分からなくても黙っているしかない」という授業にしかなりません。それに評価をかけても、到達できない子どもを明確にするだけでそれをフォローすることもままなりません。だから、「家でもっと勉強しろ」だの「塾に行かないとダメ」だのという話になります。
2)私は連続的な学びを維持するために、毎時間ごとの評価の設定を省き、単元での評価を重視しています。指摘された理科の授業では、最初に学習指導要領をもとに、 子どもたちとその単元で何が分かるべきで、どのような道筋で学ぶべきかを20分ほどかけて説明し、子どものまとめの用紙に課題とまとめ方の手順、黒板のホワイドボードには実験の進め方を掲示してあります。この流れで授業が連続的に行われています。ですから部分を切り取ると、何か無目的に学んでいるように見られますし、評価が見えにくいのも当然です。
【芦田】1)+2)合わせて:毎時毎のレフェランスを明確にしろってどこで私が言いましたか? 「単元毎」というまとめ評価は、あくまでも生徒に対する評価。単元の終わりにいたって、生徒評価をしても意味がない。私はそれを「後の祭り」評価と言っている。生徒評価はいつでも教員の教育力評価。単元の終わりでまとめて行われる評価が存在するときには、つねにすでにその教員の単元教育目標とその結果の生徒の履修情況がイメージできていないといけない。自らに課した教育目標が順当に達成できているという評価(単元学力評価)ができていなければならない。では「自らに課した教育目標」の達成評価はどうやって可能になるのか。それは日々の授業進行の成否を問うことの中でしか可能にならない。「学び合い」であれ「一斉授業」であれ教員の課題は同じ。「成否を問う」とは、自分が単元全体で教えなければならないことと授業進行の現状の中での個々の生徒の履修状況の把握を付き合わせる作業のこと。それが予想通りに進んでいない場合には、授業はコマ内で、あるいはコマ単位に修正を余儀なくさせられる。生徒の予復習ばかりではなく、教員自身の予復習が膨大化する。特にあなたの「学び合い」では履修進行がまちまちのため一斉テストをするのが難しい。やったとしても評価が難しい。100点が満点とは言えないからだ。「学び合い」サークルの、理解や進度やサジェスションの乱反射によって生徒への履修評価がノイズに満ちたものにならざるをえない。それらを間引かないと生徒たちへの正確な履修評価ができない。一斉授業はその分一斉テストがしやすい。点数が悪ければその分補習をすればいいだけ。双方に言えるのは、授業コマが進めば進むほど(まとまればまとまるほど)、教育課題が増えて取り返し(修正)が効かなくなるということ。能力の高い教員であれば、3コマ分や4コマ分くらいのミスが重なっても取り返しはできるかも知れないが、既成市販教材とトークしかないあの授業では授業コマが貯まっていくことは致命的だと言える。それでも、あなたがいい加減なことを言っていられるのは、単元単位の試験(レフェランス)のイメージがないか(抽象的な指導要領が目標だと言っているくらいだから)、あってもそのレベルが低いか、あるいは必ずしも実際の授業テーマ・進行とはそぐわない既成市販業者のテストを行っているか、授業進行に応じた個人相対評価(さらにその上意欲、態度、関心の情意評価が加わった相対評価)しか念頭にないかのいずれか。いずれにしても、生徒への評価が、担任主義的にクラス内で丸まられているために、評価軸が主観的に過ぎるため、日々の授業の進捗意識がない。生徒への評価が相対主義だということは、教員に教育目標意識(レフェランス)が存在しないというのと同じ。目標意識はあるとすれば授業参加しているかいないか、だけなのである。


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○tontanさんがブログで言っていた「毎時間ごとの評価を止めた」ということについて質問させて頂きました。tontanさんによると、「毎時間ごとの評価を止めた」というのは、課題を1時間の中で全員が理解することを求めるのではなく、数時間ある単元内で最終的に理解できればよいというスタンスに変えたということでした。tontanさんはここで「評価」という言葉を「個々の学習進度を把握する」という意味ではなく、「各時の小目標を達成したか否か」という意味で使っていると理解しました。私が疑問だったのは「個々の学習進度を把握する」という評価まで止めてしまったのかどうかということでした。tontanさんによると、その意味での評価は当然ながら行っており、毎時の後どころか即時評価、即時フィードバックを大切にしているとのことでした(鶴亀算の件については後述)。学び合いだからこそ「個々の学習進度を把握する」という評価は一斉授業よりも精緻に行うことができるとのコメントもありました。

○「各時の小目標を達成する」ことを積み上げていけば単元目標が間違いなく達成できるのかという点につき、経験的に疑問を持っているとの話を伺いました。それよりも最終的に単元の最後で全員が理解するようになることに重点をおき、「各時の設定目標の達成評価」は柔軟に対応する、というのが「毎時間ごとの評価を止めた」という意味だとのことでした。

○ Tontanさんに「個々の学習進度を把握する」評価のタイミングについて質問しました。評価のタイミングは以下のとおりです。
?毎時授業の中で即時評価を行い必要な手立てをとる(例えば九九であればどの子がどの段が弱いかを見取り、朝学習の時間で鍛えるなど)
?2〜3時毎に評価を行い必要な手立てをとる
?1単元の終盤に評価を行い単元内に補習の時間を確保する
?単元後の評価(まとめ評価)

○評価という観点から学び合いのメリットは以下のとおりと理解しました。
?一斉授業と比して個々の学習状況を精緻に把握できる。従って1時間の中での即時評価、フィードバックを質、量ともに高めることが可能。
?学びあいは一斉授業と比べ学びの効率が良い。その分評価をもとにした補習時間を確保することができる(理解している者にとってはさらに進んだ学習の時間となる)。

○3年生の算数の授業では、3桁×2桁筆算の穴あき問題を3問解き、解き方の説明を記入するという課題でした。できた子は板書された鶴亀算に挑戦。tontanさんに聞くと誰が穴あき問題が出来ていないかは把握している。今日できなかった子は次の時間で分かるようになればよく、最終的に単元が終わった時に全員が目標を達成していればいいというスタンスとのことでした。鶴亀算も同様だが、指導要領を超えたレベルの学習なので、どうしてもこの単元で全員が達成しなければならない目標ではない、というコメントでした(tontanさん、間違っていたら訂正お願いします)。

○算数の時間ではtontanさんが上位の子達に積極的に教えていました。tontanさんのコメントとしては、?学び合いは教師が教えないというのは誤解、教えたほうが伸びるのであればどんどん教えるべき ?上位の子どもが下位の子どもに教えるよう強制することは絶対に避けるべきで、上位の子ども達にも、より上を目指すという学習機会を確保することが大切。?但し教えて欲しいと言われたときにはいつでも門戸を開いているように指導している。それは教えてもらう人だけではなく、教える人にとっても説明することによる学びがあるのだということを繰り返し伝えている。
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3)なぜ、毎時間ごとの評価を止めてこうした「学び合い」に移行したか? それは毎時ごとの到達では、ぞれからこぼれてしまう子どもが出てしまうこと。また、「子ども」が毎時間全員の到達を達成しようとすれば、どうしてもできる子どもが何とかしようと変な動きをし始めるからです。「ゆるめる学び合い」は「ルーズにする」と「ぱっと見」には非常に似ていますが、決定的に異なります。「ゆるめる学び合い」により、子どもたちはずっと安定して学び続けられます。芦田氏はこれを「子どもの相対的な関わり合い」で個々の評価が見えにくいと言いますが、確かにその通りです。でも毎時ごとの評価など必要などなく、その単元で何がどうできたか、終わりで判断すればよいということです。私たち(私とfuru-tさん)は「二度目のバンジージャンプ」と呼んでいます。これは単元の流れや構成が分かっていないとできないことです。効力は高い反面、ルーズになってしまう危険もあるのでとても怖い学習でもあります。ただ、こうした「学び合い」を全方位でやっているのは、「学び合い」グループでも本校の教員だけだと認識しています。「学び合い」で誰もがやっている授業ではありません。


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【芦田】「毎時ごとに」こぼれる生徒、という診断があるのなら、毎時ごとに対策を行う必要がある。それだけのことです。すでにそこで破綻している。この診断と対策を延ばすのは、「こぼれる」生徒にとって、さらに過負担な学習を強いられることになるということです。「ゆるやか」とあなたが言っているのは目標を下げているだけのこと。真っ先に、できない生徒を見限っているわけです。「できない子はできない子なりに」というものです。それは、一斉授業で脱落する生徒が放置されるのと内容的には何も変わらない。「学び続ける」ことに意義があるという意欲主義は、その真っ先の見限りを隠すためのもの。そんな見限りを一介の教員がどんな権利でもってやることができるのか。結局のところクラスが平和であればいいというクラス内管理主義なのです。それを言うと必ず西川もあなたも「よりまし」論になる。それ自体が相対論なわけです。よりダメな奴に向かってよりましと言い続ける。上を目指さず、内に閉じこもる。つまり教員業者論(教員内輪論)です。生徒のことなんかまったく考えていない。あなたたちが「子供は素晴らしい」と言うのは、自分たちの本質的な内輪論を隠すためのこと。くだらない。私が許せないのは、地方格差が声高に叫ばれる今こそ、地方の公立学校は、地域に依存せず、東京の進学校も含めた全国レベルとは何かをクラス内に持ち込むべきだということです(そのレベルを個々の教員が実現できるかどうかは別にして)。私立学校は上は上で、下は下で固まっています。公立学校こそが、クラスの中に、平均的に上位〜下位を反映させるべきなのです。まさに多様性こそが公立学校の存在する意義。公務員とは全国格差を跳ね返すために存在しているのですから。

○「ゆるめる学び合い」とは何か、という点につきtontanさんに質問しました。私の理解ではこれは「上位の子たちの学習レベルにふたをしない」ということです。つまり上位の子、下位の子全てに共通した1つの課題を1時間の中で与える(tontanさん言うところの「西川先生の提唱する「学び合い」の典型的な授業の形態」)のではなく、あえて課題の出し方を「ゆるめる」、つまり上位の子たちがもっと伸びることができるような課題を別に設定するということだと理解しました。上位の子たちが自分で学びたい課題に取り組む環境を確保することとも言えます。上記の算数の時間で「3桁×2桁の筆算」と「鶴亀算」が並行して学ばれているのもその一例だと理解しました。

○よく「塾のほうが学校より勉強が楽しい」という子どもが私のまわりにも結構います。それはおそらく小学校教育では上位の子たちにとって学習レベルにふたをされているからではないかと推測します。その意味で上述の「ゆるめる学び合い」には可能性を感じます。

○「二度目のバンジージャンプ」の意味についてtontanさんに質問しました。1度目のバンジージャンプは学び合いを始めること、2度目のバンジージャンプとは上述の「ゆるめる学び合い」を始めること、とのことでした。
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4)また、ホワイドボードと「学び合い」のマッチングがよいのが分かります。ホワイドボードの魅力は「すぐ消える」ことです。「すぐ消える」から子どもらは書くことにためらいなく自分の考えを出すことができます。逆に紙に残るものは上位子どもしか書きません。ですから「グループ学習」だと書く人がいつも決まってしまうのです。消えることが前提になっているからこそ、それを再構成して紙に出力できるのです。そのために「オープンクエスチョン」は非常に有効な手段ではります。オープンクエスチョンを取り入れることで子どもの理解の曖昧さが解消されつつあります。そのために本教室では、壁に掲示してあります。ただ、こうした試みは1か月前からであり、もちろんのこと「学び合い」グループでもそんな実践者はほとんどおられないと思います。 しかし、非常に効果の高いものだと考えています。これからの学習と言えるでしょう。

【芦田】意味不明。

○ホワイトボードを話し合いのツールとして活用していました。4、5人でA3判くらいの大きさのホワイトボードを真ん中において、出てきた意見をどんどん子ども達がホワイトボードに書き込んでいく。意見が可視化されるので議論を積み上げやすいのだと思います。
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5)芦田氏のいう「とても容認できない姿」は最近転校して「学び合い」を始めた子どもらです。それでも授業の9割は主体的に学んでいます。保護者と話していて、子どもの急速な成長に驚いています。そして、「家で進んでも自分から勉強するようになった」と言います。とても力のあり、理解力の速い子どもですが、家では「クラスの学習レベルに中々追いついていけない。周りの子の力がすごい。」と言います。もしも、芦田氏のいうような「評価が甘く、いい加減に学習している」ならこんな話にはならないことでしょう。
6)「学び合い」を保護者の方も寛容に見てくれる(毎時間きちんと教えない)のは、子ども学習の向き方が変わるのが見えるからです。家庭での学習の取り組み方、家庭で授業のことを話す時間が変わるからです。最初は保護者も否定的です。そして「うちの子どもには合うかどうか心配」と言います。しかし、それは次第に変わっていきます。


【芦田】5)+6)合わせて:「とても容認できない姿」なんて言葉は使っていない(笑)。あなたが致命的に間違っているのは、「主体的に学んでいます」と主体的な(意欲的な)学びをいつも強調することです。それなら断言してもいい、「9割」どころか、生徒たちはみんな主体的で意欲的に取り組んでいました。間違いない。しかしわかっていなかった、と言っているのです。つるかめ算をわかっていない生徒が少なからずいたということです。しかもあなたはその子供を授業内で発見できずに終わっていた。だから私の発言を「転校生」の問題にすり替えているのです。あなたの授業指標は学び合い参加度しかない。参加度と理解度は何の関係もない。それは社会体育的なファシリテーションの指標に留まるものです。もちろん〈意欲があること〉と〈理解していること〉とは何の関係もありません。バカほど意欲的であることも良く眼にすることです。おとなしかったり、コミュニケーションが苦手な子、引きこもりの子供=低学力ではないからです。それは人と話すのが得意な営業マンが必ずしも頭がいいとは言えないのと同じこと。オレオレ詐欺などは、何千万円、何億円と元手なしにお金を集めるくらいに他者と「仲良くなる」能力を有していますが、学力があるとは言えないし、西川の言う「人格の完成」とはほど遠いはず。「家では『クラスの学習レベルに中々追いついていけない。周りの子の力がすごい。』」と言います」。そんなこと関係ない。「周りの子の力がすごい」ってどうやってできない子が判断できるの? その子供がそう思っていることは正しいというだけのこと。まさに社会体育的なアンケート主義です。こんなに話(レフェランスとは何かという)を詰めてきているにもかかわらず、ここで生徒と保護者の発言を当てにする。それがあなたが教育指標をもててない証拠なのです。こういうアンケート村意識が学び合い教育をダメにしている。

○学び合いにおいても単元目標達成のための評価(「個々の学習進度を把握する」評価)は定期的に、または即時に行い目標達成のための手立てを講じていると理解しました。但し学習指導要領の基準を超える鶴亀算については、学習指導要領レベルをクリアした子が数時間かけて理解していけばいい、というのがtontanさんのスタンスだったのだと思います。

○「主体性」や「意欲」については学習を進めていく上での土台であり、学び合いはその土台作りだけを目標にしているわけではもちろんないという理解です。「周りの子がすごい」というのは学習意欲を喚起する上での1つのきっかけに過ぎませんが、このような子ども同士の関わりを通して土台となる学習への構えが形成されるという側面が学び合いにはあるのだと思います。

○土台ができただけで満足するかというと決してそんなわけではなく、tontanさんもfuru-tさんも限りなく子どもを伸ばしたいという気概にあふれている方Bでした。そのために教師の専門性をもっと磨かなければという危機感を持っているのを感じました。しかし一方で、自分の意志で学んでいる(はず)の高等教育と比べると、義務教育におけるこの土台作りがいかに大変か、ということも現場教師の実感ではないかと思います。

○学び合いはおとなしい子、自分だけでじっくり考えたい子に対して無理やり「コミュニケーション」を強要するものなのか、といった趣旨の質問をtontanさんにしました。tontanさんはそれを否定した上で、逆に学び合いを通して子ども達の関わりができてくると、子ども達がお互いの多様性を認め合うクラスになるとのコメントでした。安心して「引きこもれる」クラスの中で、必要な時には学びあえることが大事だとのことでした。


許可を得て全文を掲載させていただきました。ありがとうございました。みなさんの見方を広げる一つになると思います。