芦田先生のひどい誤解をご紹介します。

「いろいろおかしな批判されているよ」と言われたので読んでみたら事実ではないところを書かれていてびっくりしました。これでは「学び合い」を実践されている方も、これから始めようとする方も怒りや不安が蔓延するのは当然です。


【芦田】1)+2)合わせて:毎時毎のレフェランスを明確にしろってどこで私が言いましたか? 「単元毎」というまとめ評価は、あくまでも生徒に対する評価。単元の終わりにいたって、生徒評価をしても意味がない。私はそれを「後の祭り」評価と言っている。

生徒評価はいつでも教員の教育力評価。単元の終わりでまとめて行われる評価が存在するときには、つねにすでにその教員の単元教育目標とその結果の生徒の履修情況がイメージできていないといけない。

自らに課した教育目標が順当に達成できているという評価(単元学力評価)ができていなければならない。

では「自らに課した教育目標」の達成評価はどうやって可能になるのか。それは日々の授業進行の成否を問うことの中でしか可能にならない。「学び合い」であれ「一斉授業」であれ教員の課題は同じ。

「成否を問う」とは、自分が単元全体で教えなければならないことと授業進行の現状の中での個々の生徒の履修状況の把握を付き合わせる作業のこと。それが予想通りに進んでいない場合には、授業はコマ内で、あるいはコマ単位に修正を余儀なくさせられる。生徒の予復習ばかりではなく、教員自身の予復習が膨大化する。

特にあなたの「学び合い」では履修進行がまちまちのため一斉テストをするのが難しい。やったとしても評価が難しい。100点が満点とは言えないからだ。「学び合い」サークルの、理解や進度やサジェスションの乱反射によって生徒への履修評価がノイズに満ちたものにならざるをえない。それらを間引かないと生徒たちへの正確な履修評価ができない。一斉授業はその分一斉テストがしやすい。点数が悪ければその分補習をすればいいだけ。

双方に言えるのは、授業コマが進めば進むほど(まとまればまとまるほど)、教育課題が増えて取り返し(修正)が効かなくなるということ。能力の高い教員であれば、3コマ分や4コマ分くらいのミスが重なっても取り返しはできるかも知れないが、既成市販教材とトークしかないあの授業では授業コマが貯まっていくことは致命的だと言える。

それでも、あなたがいい加減なことを言っていられるのは、単元単位の試験(レフェランス)のイメージがないか(抽象的な指導要領が目標だと言っているくらいだから)、あってもそのレベルが低いか、あるいは必ずしも実際の授業テーマ・進行とはそぐわない既成市販業者のテストを行っているか、授業進行に応じた個人相対評価(さらにその上意欲、態度、関心の情意評価が加わった相対評価)しか念頭にないかのいずれか。

いずれにしても、生徒への評価が、担任主義的にクラス内で丸まられているために、評価軸が主観的に過ぎるため、日々の授業の進捗意識がない。生徒への評価が相対主義だということは、教員に教育目標意識(レフェランス)が存在しないというのと同じ。目標意識はあるとすれば授業参加しているかいないか、だけなのである。

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当日の話を覚えていらっしゃらないまま批判をいただきました。まずは、「あとの祭り評価」ですが、私は単元の終わりに確かに評価テストをかけます。その時数は、単元総時数の2/3時間と話したはずです。なぜ単元がそれだけ速く進行できるかは、家庭での予習だと話したはずです。学校では、その考え方や意味、図にかいて説明することを重視していることを話しました。その中での進行度には違いが当然うまれるということです。
単元を達成をそこいったん評価することで、下位の子どもは弱い部分や再度学び直すべき点を何度でもやり直せる時間を授業の中で確保していると話したはずです。(覚えていらっしゃいますよね?) そいうしなければ子どもの学力など向上するはずがありません。
 
また、「学び合い」の評価はリアルタイムです。通常は早くても時間ごとですが、子どもの像全体を見取るために、課題のブレや子どものつまずきが即座に見えます。それを主観として否定するならば、教師の役割そのものを批判するのと同じです。
 
全国の小学校で補習授業をやっているところは数%もありません。大抵の一斉授業の単元テストは「成績をつけるため」のものであり、テストの点数がいかに低かろうと補習をすることはほぼありません。せいぜい宿題です。私は、それを「無責任」だと感じます。そのために、上位は十分にレベルを上げて、下位の子どもは何度でも学べるようにしています。
 
芦)抽象的な指導要領が目標だと言っているくらいだから)、あってもそのレベルが低いか、あるいは必ずしも実際の授業テーマ・進行とはそぐわない既成市販業者のテストを行っているか、授業進行に応じた個人相対評価(さらにその上意欲、態度、関心の情意評価が加わった相対評価)しか念頭にないかのいずれか。
 
学習指導要領は極めて具体的です。読んだことがないのですね。解説編を読めば学習の進行や各セクションでどのようなことをとらえさせるべきかきちんと明記されています。一度、全学習指導要領の解説編を読まれることをお勧めします。とても分かりやすいと思います。
 
公教育に学習指導要領以上のものを求め、達成できないことに「レベルが低い」というのはフェアーではありません。また、小学校の評価テストは既成市販業者テストしかありません。または年間の学習の達成状況を把握する、NRTやCRTしかありません。そこについては全国の小学校で使っています。そこは「学び合い」の批判とは異なりますよね。
 
また、話し合いで私は「結果主義です」と話したはずです。私のクラスの子どもにも「分かったか」「できたか」が大事であって「どう頑張ったかは評価はできない」と話していると、説明したと思います。相対評価なんて一言も言ったことはありませんし、私の見せた授業でいつ情意を評価する場面があったのでしょうか?
 
芦)いずれにしても、生徒への評価が、担任主義的にクラス内で丸まられているために、評価軸が主観的に過ぎるため、日々の授業の進捗意識がない。生徒への評価が相対主義だということは、教員に教育目標意識(レフェランス)が存在しないというのと同じ。目標意識はあるとすれば授業参加しているかいないか、だけなのである。
 
「評価軸が主観的」と勝手に決めつけて話を進めています。さらには「授業に参加しているか、いないか」そのレベルの話を私はしたでしょうか?
「参加するのは当たり前」と話したはずです。「参加もしていない一斉授業は、おかしい」とは言いました。それを「参加しているかしていないか」にこだわっているようにすり替えられています。参加するのは当たり前で、そこで何ができたかが大切だと今のクラスでも1年間子どもには話してきています。その上で「改めて評価は大切ですね」という話をさせていただいたはずです。
 
 
 
批判は続くのですがこのようにびっくりすることだらけです。嫌気が指すので一つ一つ潰すのは止めたいと思います。授業の後にどんな話し合いがなされたかはレコーダーに残っています。授業を参観されるのも、話し合うのもよいのですが、事実をきちんと出していただければと思います。
 
これではまるで「学び合い」は教師が子どもを放りっぱなしで、評価も情意面とぐちゃぐちゃにし、目的意識もなく授業している見たいな話です。そんな授業で子どもが学ぶわけも、学力が上がるわけもございません。
 
こんな話が「意図的」ではないことを願っています。