今、何が起こっているのか?

芦田先生の書き込み読まれて多くの方から「あれはないんじゃない?」「大丈夫?」「どうしてああなったの?」「芦田先生って結局何が言いたいの?」とメールを多数頂きます。
 
私は「全く気になっていません」
 
「教師が1時間ごとの明確な目標を持って、時間で児童生徒がどれだけ到達できたか明らかにする」
 
こんなのは何十年も前からこの教育界で実践されてきていますし、出てはすぐに廃れます。廃れるのは当然です。理論的には正しいけれども、続けられないからです。
 
人に見せる1時間の授業なら「一週間かけて準備すれば可能」です。でも、そんなことできるはずがありません。またその評価をどう子どもにフィードバックすればいいかなんて「分からない」のです。さらにその評価表さえ「なかり怪しい」しろものです。調べて項目を読んでみれば分かります。
 
実現できないようなものをどんなに唱えても、考えるための参考にはなっても現場の実践では何にもなりません。もし「できる」というならば、ぜひその授業を公立の「小中学校」で毎日実現させてみてください。
 
私は多くのそんな腐った授業を観てきました。特に中学校以上では「シラバス」という言葉が今、大流行しています。この「シラバス」が一人歩きしてどんなことが起こっているか、芦田先生は知りません。中学校では「シラバス」という言葉を大義名分に、子どもが授業に参加できなくても教師はその責任を感じず、それに乗ってこない生徒が悪いと考えます。「私はこんな評価システムをとっています」「こんなサポートをしています」が逃げ文句です。でも、実際には1時間の中でずっとノートを取っている「だけ」の子どもが、半分もいる授業です。その中の1割はノートすら取っていない授業です。誰も一言も話すこともない授業もあります。
 
そして、授業検討会の話では「シラバスが」「シラバスによって」「このようにシラバスを工夫して」と話が始まります。指導助言も仕方がないので、「このシラバスは大変良くできていて…」という話になります。

「学び合い」の授業で昨年のクラスは、芦田先生の言うような、上位も伸びどまりもありません。最初に突き抜けて成績が上がったのは上位です。またアンダーアチーバーも一人もでませんでした。そして、みんな人に優しく、柔軟でした。そのクラス作りと学びは今のクラス作りと学びにも生かされています。
 
部分を切れば見えないものですが、結果としての「子どもの姿」があります。単純に見えない学力でルーズに勉強している子どもではなく、放課後も自主的に残って宿題の検討をする子どもたちであり、物語文は原稿用紙に20枚前後書く小学校3年生の子どもたちです。
 
ですから気になりません。西川先生の言葉を借りるなら「大儀は我にあり」です。
 
「柔軟性に富み」「学び続ける力があり」「人に優しい」 教師はみんなそんな子どもを育てたいのですよね。 
 
教師の目標設定と細やかで正確な評価基準とその評価でそんな子どもが育てられるのなら私はそれは素晴らしい授業なのだと思います。どうかそんな授業がたくさん生まれることを私は願います。
 
私は別のアプローチから迫っているだけです。