ばかおに

この時期になると思い出します。10年ほど前のことです。
 
「みなさんの退治したい鬼を書いてその鬼退治をしましょう。」
 
学年で作った紙にはそれぞれが「なまけ鬼」「わすれもの鬼」など
書き込んでいました。
 
できあがった用紙の一枚にふと目がとまりました。
「私のばかおに」
衝撃が走りました。
子どもの前では冷静さを保っていましたが衝撃で心がふらふらでした。
その子どもは温和しい子どもで、そして成績はクラスでも最下位レベル。
でもそんな彼女を私は一生懸命にサポートして、頑張らせて、前向きにしているのだと思っていました。だから自分のことなど「ばか」だなんて思っているはずがないと考えていました。
 
オニつながりではありませんが、「いがせん」さんのブログに目がとまったので、オニミチの中川さんに了解を得て、私も彼女のメールを転載させていただきます。
 
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こんにちは、中川綾です。

2月6日に、『先生の学校・特別講義』が行われました。
芦田宏直氏( http://www.ashida.info/ )をお迎えして、
「授業法と評価法」というテーマで
予定では5時間集中のはずだったものが、結果として8時間!!
の講義になりました。笑

予定より3時間もオーバーしても、
8割近くの方々が最後まで残っていらしたこの講義は、
本当に熱く、その後も余韻を残しています。

芦田先生は、「教員は一流であってこそ、子ども達を救うことができる。」
ということを8時間かけて伝えてくださいました。

その伝え方は、とても厳しく、理想的で、愛情深く、
参加者それぞれの心の中に、本当に多くの感情と問いを生んだと思ってます。

その内容については、いつか詳細をお伝えすることができるかと思いますので
それまでお待ち頂ければ幸いです。


今日は、少し私の話をさせてください。

私は、小学生の頃からずっと、いわゆる「勉強のできない子」でした。
ですから、年をとっても、
あまり自分は頭が良くはない。と思うことは多々ありました。

ただ、大人になってそういうことを言うと、
「そんな風に言うもんじゃない。」「君は馬鹿じゃない」
と言われてしまうのですが、そういうことはちょっと置いておきましょう。笑


とにかく、子どもの頃の私は、5教科が苦手で、赤点なんて当たり前。
暗記はできないし、高校生になってしまったら、どこからやり直せばいいのかも分からず、
テストも宿題も、いつもギリギリ。
同級生の友達に教えてもらいながら、最後の最後まで再試を繰り返して、
やっとこ卒業させてもらった。というタイプの子でした。

得意な科目は、体育・音楽・美術・家庭科という、
いわゆる実技科目。

なんとなく「そういう子」は想像つきますよね。笑

いつもいつもテストが苦しくて、
「中間テストと期末テストが、人生の中であと何回あるか」を数えてたりしました。笑


そういう、「自分は勉強ができない」という気持ちは、
教員になっても、30歳を過ぎても、なかなか消えませんでした。
(「あなたが教員になるなんて!」と言われたりしながら。笑)

「テストで点数をとれなくたって、それがイコール『バカ』ではない。」
「人間は、テストの点数なんかでははかれない。」

と、そんな風に心底思う反面、「それはただの言い訳なんじゃないか」と
いつまでも自信はつかぬまま、ポッカリとそこだけ抜け落ちてしまっているような、
そんな感覚を持ち続けていました。

あ、間違っても、今、自分を卑下したりしたいわけではないので、ご安心ください。
もう少しお付き合いくださいね。


「勉強ができない」という想いは、
「自分の努力不足でこうなった」という感情とほぼ同じでした。

「自分は努力をする才能がない。人ができることができない。」
そんな気持ちです。

でも、好きなことなら頑張れるし、好きなことなら結果が出せる。
(大学の成績は、ほぼオールAでした。)
そういう経験も同時にすることができたからこそ、
「多様な教育方法」だとか、「自立学習」「プロジェクト学習」「体験学習」などに
いたく興味を持ち、それらを仕事にすることになったと思っています。

だからこそ今となっては、
「勉強ができなかった」という経験も得をした、と
心底感じているわけですが、
どうしてか、「苦しさ」だけは消えないわけです。


その、「苦しさ」が消えない理由がやっとわかったのが、先日の芦田先生の一言でした。

芦田先生は、
「教員は一流でなければならない。泣いている子どもたちのために。」
と言い続けている方です。

つまり、
子どもが学校で知識を得ることができないのも、
勉強嫌いになるのも、
妙に教員(大人)の目を意識するようになるのも、
すべて、「教員のせいだ」と言います。


ええ。この論は極端だ、ということはよく分かっています。
でも、本当に極端でしょうか。

勉強が苦手で、嫌いになって、同時に自信も失い、自分を卑下するようになる。

そんな子どもに対して、
「あなたの努力が足りないからだ」
と言って責めたところで、そんなことを一番感じているのはその子じゃないでしょうか。

いえ、私はそうでした。

「自分が悪いから。」「自分が馬鹿だから。」という想い。
でも、どうあがいたって過去は変えられない苦しさ。

そんな中、
「すべては教員のせい」
と、スパッと言われた時に、気がついたんです。

ああ。「私がバカだから」じゃないんだな。って。

そして、

「それだけ教員という仕事は、重要で、覚悟が必要な仕事なんだな。」

ということにも。


私はもう、テストに追われている子どもではありません。

「なんだー。私がテストの点数がとれなかったのは先生のせいだったんだー」

と、『人のせい』にする理由はありません。


だからこそ、芦田先生の『先生のせい』という一言に、
涙が止まりませんでした。

それは、私も教員という職業に就いたからこそ。


今、私は「テスト」で「評価」することの重要性と意味を見出しています。

これからは、
子ども達のために教員が、自分の授業を振り返ることのできる「評価方法」を
真摯に学び、広めていけたらと思っています。


33歳になってやっと、「自分はバカだ。」なんて言わずに、
大人として子どもたちのためにしなければならないこと・したいこと、に
必死で取り組んでいきたいと思ってます。


生きる、って本当に、苦しくて楽しくて、愛おしいですね。


それではまた次回に。

中川綾

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私が「学びの共同体」から「学び合い」にシフトしたのは、私の力では「全時間でどの子どもも救いきれない」という思いがあったからです。教師が全ての子どものつまずきや戸惑いを把握し、コントロールするのは4年間やってみて「無理」だと判断したからです。
「学び合い」では、子ども全体が子どもを受け止めるために、全ての子どもが生かされます。
ここ2〜3年上記の女の子と同じようなタイプの子どもを担任しました。めちゃめちゃよく勉強しますし、ポジティブです。
「今の状態はね、半分くらいは分かるようになってきたって感じかな。」
「○○ちゃんのおかげでだいたいは分かるようになってきた。」
とにこやかに話をしてくれます。
 
今の授業は10年前の自分への懺悔でもあります。上記のような子どもを、中川さんのような大人を作らないために「学び合い」があるのだと思います。
 
ここに芦田さんの求める子どもの像と違いはあるでしょうか?