専門性

この話題はいつも争点になってしまうので、twitterで指摘されたことを含めて整理して書きます。
 
うちのfuruさんが今年転任されてきて、授業を公開してもらおうと声をかけたときです。
「あのー、授業やってくれないかな?」
「分かりました。」
「国語以外で見せて!」
「それ、どうしてですか? 私は今年小学校に来たばかりですよ。」
「だから見せて。」
「私は今まで国語しかやってこなかったんですよ。」
「だから見たいの。だって小学校教師でしょ^^」
こうして押し問答が続きました。 
 
今、furuさんが一番見せたくない授業は国語のはずです。なぜなら「学び合い」の授業を通して、自分の教材観や理念をどう国語の授業に表せるか難しいからです。
私も同じです。見せるための理科の授業ならいくらでもうまい授業を見せる自信はあります。でも本気の授業を見せる自信はありません。
 
多くの教師の場合はこの逆が起こっています。そして、授業が下手です。
多くの場合は専門性を高めれば授業がうまくなると思っています。それは大いなる勘違いです。それで自滅している人も授業も数を多く見ています。学級崩壊しかけていても、専門性にしがみついて一方的に授業を進めて、とどめを刺すのもずいぶん見てきました。
 
教師になった多くの人は「自分はみんなからはずれていたのかもしれない」そう思っていてもよいかもしれません。一方的に授業を押して、それに「ストン」と落ちる人数は1〜2割程度でしょう。その手の人が教師の大部分を占めます。そんな子どもが学級には1〜2割いるのです。教師の意図を汲み取ってくれるちょっと賢く、ちょっと優しい人が。一斉の授業を詳しく分析すると、教師はそんな人ばかり見ている(会話している)のです。その人たちを見て「みんなそう思ってくれている(はず)」と勘違いしてしまうのです。でもこれは仕方がありません。意図しているわけではなく、無意識にそうしているからです。だから自分の授業をビデオで見返すと悲惨な姿を見ることになるのです。
 
私は教科の専門性は、児童生徒の「学びの解放」の後に来るべきものだと思っています。真に学びを解放せずに教科の専門性を強調しても、児童も生徒もきっと支持してくれないことでしょう。
 
一流の教師になる。
 
もし、「学ぶということは何か?」という哲学もなく、「教える」にこだわれば「一流」にたどり着くことはないことでしょう。
 
でも私は自分一人が一流であるよりも、学校の教師みんなが力を高め合う関係であり、支え合う関係であり、馬鹿を言える関係であり、愚痴を言い合える二流集団ありたいと願います。