「国」なんてない

今回の東日本大震災原発事故で思い知らされたことは「『国』なんていうものはない」ということです。
 
原発は国の政治主導で福島県に作られ、そして事故が起こりました。多くの人は「国」またはそれを建造した「東京電力」が悪いと言います。まあ、そりゃそうなんだけど、じゃあ「国」や「東京電力」って「誰」なのでしょう? 現在の方々は、先代から、または過去の政治家や経営者の方針に従ってという考えを持っていますから本音は「自分の責任ではない」と考えていることでしょう。
 
これは教育でも同じです。国が悪い、教育委員会が悪い、そして学校が悪いと我々教師は言いますが、その実態というものは何もありません。数年もするとすっかりメンバーが替わって、誰の責任でもなくなります。これは教室も同じです。担任や学級を毎年リセットするのはいいのですが、昨年の課題は誰も引き継ぎません。また新たに組み立てることになります。
 
そこには無責任の連鎖があります。それは誰もが責任を取らなくてもいいようにシステムが働いているからです。でもそれは私は仕方がないことだと考えています。責任を負うなんて簡単にできることではないのですから。
 
では、どうしようもないことなのでしょうか?
 
私はそう思いません。なぜなら国というのは「国民の意識の集合体」だからです。つまり、県も、教育委員会も、学校も、そして学級もね。意識の集合体こそが本質なのです。「誰」ではないのです。
 
そうであるならば意識の方向性を変えていけば、自ずと変化が起きます。私がこのブログを書く理由の一つはここなのです。私は私の出来ることで未来を変えて行こうと考えています。そうした教師が10万人になればこの国の教育は変わります。今、その変革を感じているのはおそらく1万人程度だと思います。