学校は誰が創る?

校長? 教師? 地域? それとも最もらしい「みんな」で?
でも「みんな」のみんなに子どもたちはいるでしょうか?
 
30年前、私の中学校は荒れに荒れまくっていました。廊下を通ればシンナーくさい先輩がよだれを垂らしながらこっちを見てニヤニヤしています。
金八先生から始まって積み木くずしへとつながっていく、とてつもない酷い荒れ具合でした。新聞にも事件の記事が載るほどでした。
 
それでもそうした不良の先輩たちにも理屈はありました。学校側の身勝手な校則、そして自分たちの意見に耳を貸さない教師、放送室を占領してそうした自分たちの意見を主張する姿に私も応援したくなるなりました。(もちろんそうした先輩に酷い目に遭わされたことも数多くあるのでその姿の9割は同感はできませんでしたけどね)
 
自分が3年生になったときには学校はかなり落ち着きを戻していましたが、私の中のくすぶりも大きくなっていき、地元の新聞社に「教師は我々生徒の言葉にもっと耳を貸すべきだ」というようなたぐいの投書をし、掲載されたこともあります。
 
さて、今の学校はどうでしょうか? 児童や生徒が学校づくりに参画できているでしょうか? できていませんよね。 そんなこと無理でしょうか? 私はそう思いません。
 
先週から6年生と学習の交流をしてきています。いわゆる異学年学習です。よその学年と場を共有すると子どもたちはとたんに意識が変化します。今までは教室の中が全てだった小学生でも、授業を共有することで初めて学校というものを意識し、学校ではこんなふうにいろんな授業が行われているんだということを初めて実感します。
 
うちのクラスは次は1年生と共有していきます。その裏側には、子どもたち自身が「自分の学校はすごい学校(つまりは頭のいい学校)」になって欲しいという願いを持って欲しいと考えるからです。「自分たちが1年生を引っ張り上げる」「自分たちも6年生を目標にしていく」そんな学校づくりです。
 
これは次年度の学校での授業研究に盛り込んでいきます。これまで数年かけてゆっくり検証してきましたが機は熟しました。
 
私の答えは「みんな」。そしてその「みんな」の中には「子どもたち」が含まれる学校にしたい。校長でもない私ができることは、それを授業研究の中に組み込んでいくことなのです。
 
教師になって中学生の頃の自分とどう向き合えばよいかずっと答えを出せないままでいました。自分が中学生の頃にもやもやしていた学校に自分は明確な答えを出せないまま20年が過ぎました。今、ようやくその答えが見えてきたような気がします。