「テックニック」というもの

免許更新の必修科目が2日間で終了しました。
内容は文科省の指定があるので実践ですぐに役立つものだけではなく
法的なものも多くあります。
 
その講座の一つで「構成的エンカウンター」が学級作りの一つとして紹介されました。この構成的エンカウンターは15年ほど前に勤めていた小学校が特別活動で東北大会の指定校になったとき、当時研修主任だった私がその研究の基盤として、また発表の目玉として取り入れようとしていたプログラムです(ただ転勤があってその研究発表の年を迎える前に去ることになってしまったのですが)構成的エンカウンターは今も多くの学校で学級作りの基盤として使われていますし、そうした理念を取り入れた活動プログラムは無数にあります。
 
ただ当時から「難しいな」と感じていたことがあります。それは「シェア」です。活動そのものはイメージできても、それをどのように広げ収束させるかが難しいなと感じていました。実践をトレースすることは簡単ですが「おそらくうまくいかないだろうな〜」という感じもしていました。それをどうしたらよいかよく分からないまま転勤することになってしまいました(残された先生方に本当に申し訳ないって今でも心苦しいのですが)
 
こうした実践を大学を卒業したばかりの教師や講師が「これはいい!」と思って取り入れたとします。おそらく授業は崩壊します。まずは活動そのものもうまく子どもたちをリードできないでしょうし、シェアする力もないから、やったとしてもやったという事実以外にそれほど子どもたちに響かないと思います。
 
先日のブログに書いた若者の「どうすればいいの?」という問いについては「答えはありません」というのはこういうことなのです。じゃあ若者はどうすればいいのでしょうか?
 
それでも私はこうしたテクニックをまずは吸収するべきだと思います。方法さえ知らなかったらどうにもなりませんものね。ですから視野を広げてどんどん学べば良いと思います。しかし、その一方で自分の実践が本当に子どもたちの心や行動に響いているのかどうか冷静に看取る力を養ってくことが必要です。そのためには実力のある先生との対話が絶対に必要になります。その対話を続けていくことがテクニックに飲まれないでテクニックを使いこなす(身につける)ということへとつながります。
 
一方ある程度の経験を積んだ教師はこのテクニックを一旦全て捨て去ることをお勧めします。これはものすごく「怖い」ことです。だってそれはまるで人前でパンツまで脱いで裸になるようなものだからです(笑) しかし、余分な脂肪をそぎ落とすように、一旦無駄なものを全て捨て去ることで、テクニックとは何かを見いだすことができます。私も結構つらい取り組みでしたが古田さんと一緒に一つ一つ脱ぎ去ることで、自分の教師としての本質がよく見えるようになりました。おかげでどんなテクニックも自分のものとして取り込む自信ができました(たぶん古田さんもそれが楽にできるようになったと思います)
 
テックニックにはそれを生みだした人の深い理念と実践の積み重ねがあります。そう簡単にトレースできるものではないのです。だからこそ、それを使うためには、そのテクニックとはどんな理念から生まれてきたものなのか、そしてそれを柔軟に使いこなしている人の実践を直接見せてもらうことも大事なのです。
 
若い先生には表面的ではなく、テクニックを道具として使いこなせる教師になって欲しいなと思います。