授業を看取る その2 近眼でみるということ

前回は授業を看取るためには、授業をどのようにみなければならないかについてお話ししました。先日、教師として目が見えないことと、耳が聞こえないことでどっちが教師として成り立ちにくいかという話をした時に、「耳が聞こえない方が厳しいね」という話になりました。それくらい音声(音質)の情報は大切だと言えます。
 
さて、今回は「近眼でみるということ」です。さて、授業の事後研究会でよく「○○さんが○○していましたね」とか
「○○さんは○○さんと○○のことについて話をしていました」
なんていう意見を聞くことがあります。
 
もちろん、こうした情報はとても大切です。しかし、その周りでは何が起きているのでしょうか? 他の子どもたちは何をしていたのでしょうか?  
ビデオレコーダーや音声レコーダなどは「部分」を切り取ることはとても得意ですが、人間はそうしたことが得意ではありません。得意でないのですから、全部を細かくみるというのは不可能なのです。
 
しかし、人間はレコーダーなどにはない機能を備えています。これが「ぼんやりとみる力」です。ちょうど近眼の人がメガネやコンタクトを外したような感じのイメージです。ぼんやりとしてはいますが、全体の状況や人の流れ、会話の多い少ないなどを「大まか」に把握する能力があるのです。これはスーパーコンピューターでさえ難しいと言えるでしょう。
 
人の脳はそもそもそのようにできていると私は考えています。それを教室に置き換えています。教師は子どもたちの点を明確に見るよりも、全体をぼんやりと眺める方が実はよく学習状況が「看える」のです。ですから全体がうまくいっているか、子どもたちが集中しているかはぼんやりと看ることでリアルタイムに情報が飛び込んできます。
 
これが「近眼で授業をみるということ」なのです。みなさん、いかがでしょうか? ちょっと教室の片隅から子どもたちの様子をぼんやりと眺めてみてください。いつもとは変わった子どもたちの「状況」が見えてくると思います。
 
次回は、授業中にみえていること、みえていないことについて書きます。
 
 
ところでこれってシリーズ化したら面白そうだね(笑)