こうすればうまくいく→いかない

土曜日の「ひと」塾のことを調べているとここが仮説実験授業というものの中心地だと分かりました。私も理科免許なので仮説実験授業というものは聞いたことがありますし、調べてみたこともあります。昔、調べた時には「実験についての仮説を立て、子どもたちが話し合い、実験で検証してみる」私にはどうしてこんな当たり前のことが、授業方法として述べられているのか分かりませんでした。
 
「ひと」塾の講義を聴いていると、5分ごとにプリントが配布されていきます。質問に対しての答えが3択ほどあってそれをもとに話し合いましょうということです。しかし、多くの場合は力ずくで話し合わないとすぐに時間が来てしまって話が深まらないまま終わってしまいます。もう少し自由に深く話をしたいなと思う間に時間が過ぎてしまいます。
 
この細かなプリント配布は、みんながそうしているのできっと仮説実験授業の一つの手法なのだと理解しました。しかし「そうすればうまくいく」といくはずだと考えても、実際にはそうなりません。仮説実験授業という言葉も今ではほとんど聞かれなくなってしまいました。それはなぜでしょう?
 
昨日のブログのおばあさんと話をしていた時に聞いた別の話です。
「私はね。若いころ教師をしていたんです。1960年代前半のころでした。その当時は女性教師はね、男性教師で一番クズな教師よりも劣るものだって面等向かって言われましたの。職員会議で口を挟もうものなら、みんなから嫌な顔をされたものなんです。その当時はね、子どもがけがをして『私のクラスの子どもではないから知りません』なんていうのが当たり前でした。そんな時に、板倉さんとお会いしたときに深々とお辞儀をされたの。板倉さんはとてもえらい方だと聞いていたので私、びっくりして、本当にびっくりして、この世の中にはこんな先生もいるものだと思ったの。そして「ひと」の編集員になっても、ちゃんとみんな女性である私を馬鹿にしないで、ちゃんと聞いてくださって……。私ね家に帰ってずっとニヤニヤして笑うことを止められなかったんです。私でも意見を述べていいんだって。私の考えも取り入れてもらえるんだって……。」
 
この板倉さんという方は「だれ?」とその時は聞き流していたんですが、調べてみたら仮説実験授業を提唱した人なんですね。こんな人なんですもの。どんな授業をやってもうまくいくことでしょうね。おそらく子どもの未来、そして授業の在り方、強烈な信念を持ち合わせている人なのでしょう。だからどんな人にも受け入れられ、人から信頼されていたのでしょうね。
 
しかし、その人の「やり方」をいくらトレースしてもうまくなんていかないんです。板倉さんではないのですから。もしも、そうした信念を持ち合わせていたら私は法則化であろうと、学びの共同体であろうとも何でもうまく授業できると思います。
 
「〜すれば誰でも」「誰でもできる」「誰でもわかる」こうした言葉はビジネス書だけでなく、教育書にもよく見られます。それらを読んで分かったりできたりするならば、とっくに日本の教育は革新していはずです。そのとおりなんていかないんです。
 
「学び合い」にしても最近取り組まれているような、課題設定や評価などはいかに体系化しようとも効果は上がりません。おそらく非常に稚拙なレベルのものが体系化されて、「こうすればうまくいく」というものが一人歩きすることでしょう。こんなものを体系化することには意味はありません。
 
芦田氏のコマシラバスや授業シートも同じです。なぜ、大学や専門学校の学生が自分を向いているのかを分かっていません。方法が優れているから向いているのではなくて、人間が優れているから向いているのです。
 
この話をすると「じゃあ人間的にすぐれない私はどうするのよ?」という教師もおりますが、自分が「人間的に優れていない」と考えている人はそもそも教師になんてなっていないのでご安心ください。
 
私は「分かる」には多くの人の授業を参観し、話し合い、自分に問いながら、磨いていくしか方法がないんだと思っています。教師も「学び合い」なんですよね。