「学び合い」の理由

何度かこれまでにも書いていましたが改めて。
そして面倒なのでこっそりと。
 
「先進的カリキュラム」「シラバス」「評価システム」こうしたことを謳う多く学校の授業を観てきました。立派な計画、緻密な評価、そしてその理屈についての記述が紀要を埋め尽くしています。
 
しかし、そうしたものが立派であればあるほど、練られれば練られるほど授業との実際のギャップを感じます。授業者は授業の説明に今、起こった授業の説明ではなく、我々はどんな理想を掲げ、授業をしているのかを述べ、まるで今の授業はその途上であるかの話をしています。
 
そうした研究校にも確かに「すんごい」授業を実践する人は少数ですがおります。しかし、大抵そういう人はカリキュラムとか、緻密な計画無しに「直感的に」授業をしています。だから話を聞いていておもしろいのです。そして、そうした学級での子どもは何を見ているか分かります。教師という人間を見ているのです。
 
これはtwitterに置き換えるとよく分かります。数万とか数十万とかのフォロアーをもつ有名人をフォローしても、その人の情報は大抵読むだけでありその情報に関わることはまれです。大抵自分にとってはどうでもよい情報だからです。でもコアな関係を結んでいる人とは非公式リツイートをかけて積極的に関わろうとします。つまり、この人間と関わりたいと思えたときにのみ人は自ら関わろうとするのです。いろんな人とつながっているようでもちゃんと人は状況や信頼性を見極めて仕分けしているのです。
 
学習でもこれが起きます。どんなに優れたカリキュラムを構築しようともそれで子どもがそれで動くわけではありません。もしも、そうであるならば、少なくとも戦後65年でとっくに優れたカリキュラムができあがっているはずですよね。数百万人もの教師がここに携わったのですから。
 
人に物を教えるというのはそんなに簡単なものではありません。「教えれば育つもの」でも「教えないから育つもの」でもありません。そんなの明確な答えなんてそもそもないですから。
 
「学び合い」の授業であるということは、「カリキュラム」や「評価システム」という鎧を脱ぎ捨てて、裸になって子どもに人間性をさらけ出すというとてつもない「恐怖」と「困難」が待ちかまえています。私はとても難しい授業だと思います。
 
でもその一戦を超えれば、カリキュラムだろうと評価だろうとどんなものでも子どもを授業に乗せることができます。私は「順番の問題」と思っています。
「学び合い」ができれば、どんなスタイルの、どんなカリキュラムも、どんな評価システムも構築することができます。だって向こう(児童・生徒)がこっちを向いてるんですもの。「学び合い」ができてからが「教師としての勝負だ」とも思います。
 
「学び合い」の本質とは子どもの力を信じることであり、子どもを人間として尊重することでもあります。だから子どもはこの先生だったら着いていってもいいと思うのです。
 
やれば分かりますが、信念もない教師がカリキュラムで押せば、児童・生徒はそっぽを向きます。もちろんそれは「学び合い」でも。子どもに優しい言葉を並べようとも、評価しようとも、次にはつながらず勉強もしません。やれと言ってもやりません。「学び合い」をやっている人ならこれがどれほど苦しいか分かりますよね。
 
だから私は「学び合い」なのです。