「学び合い」

多くの方々からお叱りと励ましの言葉を頂きました。
私がなぜあれほど言葉のやり取りにこだわりを持ち、誤解されることも承知で厳しい発言をしかたのか? 西川先生とのやり取りの中味で表にだせる部分を元に話します。
 
 
まずは、本校の現状を話さなければなりません。私が勤務してから毎年連続で病休の先生が複数おられます。そして、次の年には他校へ転勤されていきます。もちろん、そうなる前に様々な予兆がありました。しかし、それらは全て我々一般のものには情報の詳細は回らず、どうにもならなくなった状態になって初めて、伝えられるものでした。じゃあ、仕方がなかったのかと言えばそれは別です。その予兆は分かっていたのですから。それは我々が見殺しにしていたということと同じです。
 
iku-nakaさんの状況が私にはオーバーラップしていました。予兆はあったのにどう踏み込めばいいか戸惑っていました。西川先生へのコメント欄に書き込んでいる言葉と状況から「最後の力」を振り絞っていることが見えていました。ですから「対応の仕方」ではなく「受け止める」ことが必要なのだと感じていました。
 
「学び合い」の理想を追う人にとって部活動とのジレンマは簡単に割り切れるほど簡単ではありません。私の「部活動」にコメントされた近隣の中学校の「!!」さんの書き込みをごらんになれば分かると思います。もし部活動に対して、異論と唱えようものなら周りの教師に「はずれもの」「余計な奴」と言われ、敬遠されるのが「普通」なのです。それは「保護者」からもです。「あなたは駄目教師」「お前なんて話にならない」ともろに言われることもあります。
 
だから私は西川先生のコメント欄に書き込みました。私の予想外だったのはそこに誰も続かなかったことです。なぜ、書き込めなかったのか? 私の西川先生に向いた矛先はそこにあります。もし、そうした状況が続くのであれば、西川先生の負担はいつまで経っても減りません。そして、教祖に奉り上げられます。西川先生はそれを望んではおりません。では、我々はどうすればよいでしょうか? 
 
我々が「ネット」という見えにくい関係の中でも、誰かしらがその問題に解決に向けての突破口を作れる可能性があります。もちろん作れない可能性もありますが。
 
本校の話に戻ります。我々は管理職に本校で起こる諸問題をどうか我々におろして、総力で問題を解決していきたいということを話しました。そして、多くの問題が我々全員に降りてくるようになりました。それを我々の責任と力で解決に向いてきています。我々が誰一人見捨てないという誓いの元で。
 
ネットだから、大人だから、だから救えないのは仕方がないと私は思いたくはないのです。そのためには情報には風通しをよくしていく必要があります。私が西川先生にコメント欄の復活を切に願うことはここにあります。
 
同時に私もコメント欄を消しません。私もパブリックでコメント欄を出せば、保護者や子どもの見ているこのブログで厳しい批判にさらされることもあります。事実昨日の夜は本気にくじけそうになりました。しかし、ふんばりました。ここのチャンネルを閉じてはいけないと。
 
私は西川先生の10分の1ほどの力もありません。その西川先生でさえ神様には成り得ません。bunbun-hさんに書き込んだ「人間は人間にとって狼になる」「人間が人間にとって神になる」とホッブスは述べますが、「神」は後にそれは「隣人愛」とその言葉に書き換えられます。我々に隣人愛は無理でしょうか?
 
我々は西川先生のおっしゃるようにもっと「直接的」に関わる必要があるのでしょう。私を知らない人は、私がどんなに怖くて、気性が激しくて、攻撃的な人だと思うことでしょう。私と会話したことがある人はどうしてあんなこと書いたのだろう? 何が言いたいのかな? を一歩引いて考えてくれることでしょう。
 
でも実際には私も今、息子が横で大泣きしているように、遠くへ出かける時間的な余裕も、心の余裕も、身体の余裕もありません。だからよその「学び合い」にそれほど行けるのものではないのです。だからこのインターネット上のネットワークを駆使してつながっていかなければなりません。
 
私は西川先生がまだ「学び合い」という言葉を使う前から知っています。それは8年前に附属小学校での研究公開でした。これが「あの本(なぜ理科は〜)」を書いたすごい先生なのか? でもその時には声をかけられませんでした。それから半年後恐る恐るメールを出してみました。
愛のあるお返事を頂きました。西川先生がおられなければ今の自分はおりません。私は西川先生とお会いする機会は数えるほどしかありませんが、私は西川先生と会えば、冗談を交わしながらニッコリ笑っていられる関係です。お会いしているときに感覚のまま文字にするとかなりえぐい表現になったかもしれません。そして私もいろいろ相談に乗ってもらっている一人です。そしてメールを通して西川先生に私の持つ考えを伝えられている関係です。ですからどうぞ誤解のないようにお願いします。
 
そして今回のことを機会に西川先生には「我々」という集団を信じて欲しいと願います。我々一人は時間も経験も、年齢も、性別も、職種も異なります。でも少数では解決できないことを「誰かが」解決できる可能性があるのです。私はこのグループの可能性にかけたいのです。そしてそれを可能にしたいのです。
 

 
みなさん、どう思いますか?