「みんなが」は大事なのだけれども

東北青年塾でちょっと話し込んだ内容です。
 
ピアジェの前操作期、具体的操作期、形式的操作期というものが厳密でないことは分かっていても、大方はそれに沿っていることは特に小学校の教師なら理解できることでしょう。
 
うちのクラスでは、0点を続けてとる子どももいます。詳しくは書けませんが、具体的操作がなければ数字を操作できない子もいますし、やっと「ひらがな」が書けるようになった子もいます。「みんなが」を強いれば、子どもは疲弊します。
 
このクラスでテスト100点は○○人でした。もう少し頑張りなさい。と言い続ければどうなるでしょう? 確実に子どもはギスギスしだします。3桁の小数のわり算の「学び合い」で、5−2がスムーズに答えを出せない子どもに、1時間の中で一つのわり算の答えを出すことは相当困難なこととは想像できることでしょう。
 
高校生ならば底辺校の子どもに、微分積分の問題を「学び合い」で解きなさいといっても、それは無理なことでしょう。ましてや「みんなが」を力で押したらどうなることでしょう。
 
小学生の子どもの学習の様子を長く見ていると、明らかな「認知の壁」が見えます。「学び合い」をしていると確かにその壁を瞬間的に越えることができます。しかし、それはまた壁の手前側に元に戻るのです。それを私は「無駄」だとは思いません。いつかは脳の発達とともにその壁は、スムーズに越えられるようになるのですから。そこに向かうための努力は大事だと考えます。ただ、それを周りの子どものせいにすれば、従順な子どもはけなげに教師の願いを感じ取り、その責任さえ感じ取り、自分たちを責めることになります。
 
私は何度も「学び合い」でよいのかどうか? 自問し、子どもたちにも本当にそれでよいのか問いかけます。教師の願いに合わせている子どもはいないだろうか?と。
 
「みんなが」は大事なのだけれども、私たちは学びに対する全ての責任を子どもに対して、負っているのだとうことを忘れてはならないのでしょうね。
 
だから、私は「学び合い」って結局何? と聞かれれば
それは、「子どもが楽しい楽しい勉強ですよ」と答えます。