テストと子どもとみんな

子どもは「利己」に走ります。
テスト。時にはそれが子どものゲームになります。
みんなでよい点数を獲ることが目標になっていきます。
そして、そのテストで子どもが子どもの出来を判断していきます。
 
何度も言うようにテストにそれほどの価値はありません。
あくまで知識の一部の切り取りにすぎません。
業者のテストが指導要領を目標を満たしているのならそれが目標に
なってもかまいません。しかし、テストは目標の3割程度しか網羅されていないことは指導要領とテストを見比べれば一目で分かります。
 
例えば理科で最低点を上げて、平均点を飛躍的にアップさせための
最短コースは、テストに出る実験をそのまま行い、「結果」を「みんなが」分かるようにさせることです。しかし、そんな授業がが指導要領のめざす子どもの姿ではないことは、誰でも分かることです。
 
テストがないと授業が甘くなる、評価できない、ちゃんと学べないと信じられない人はずっと、テストを頼りにしていくことでしょう。
日本が改革しなければならないのはそのレベルではなく、誰もが高等な教育をいつでも受けられることを保証されるというレベルです。そこには「みんなが」分かる必要はなく、最も大事なのは「もっと学んでみたい」という学びへの興味です。
 
「学ぶ」ことの目的地は、「みんなが出来るようになる社会」を構築することではなく、「誰もがどんな時でも学べる社会」を構築することのはずです。
 
高校で半数の子どもがきちんと学習しないのは、テストによる束縛の結果です。ちゃんと学べないからまた、テストで束縛しようとします。
 
「学び合い」は、誰もが学習に参加し、安心して学ぶことを保証します。その中で自分の効力感を満たし、時には人のよさを教え、自分の良さを教えられます。だから子どもは学び続けるのです。テストでクラスの成績をあげることなんて実は子どもにとってはどうでもよいことなのです。
 
私には出来ないことがたくさんあります。でもそれをみんなから「頑張れば出来るよ」と励まし続けられる社会はまっぴらごめんです。自分のよさを認めてくれる社会が理想です。学び合うことで、それは実現できそうだと私は思っています。