鍛えと学び合い 2

西川先生の意見とと先日書いた日記意見が異なります。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080426/1209203490

「学校は学び合いだけの時間ではない。」この点についてです。
少し詳しく書きます。

学び合いの本質は自己有能感にあると考えています。クラスを向上させる(させた)自分。友達を分からせた自分。そしてよく分かるようになった自分。子ども同志の関わりの中でこうした有能感が次のモチベーションへとつながり学習の効力を発揮するのだと考えています。
さらに、学習を受動型から能動型になることにより、「分かった」がドラマティックに脳の活性を促し、学力を向上させいることも子どもの様子を観ていると分かります。
 
ですから、私も全教科で学び合いです。可能な限り学び合いです。もちろん特別活動も学び合いです。
  
小学校の先生だと分かるかと思いますが、幼稚園児〜小学校時代で子どもの能力が「めざましく」、「不揃いに」発達してきます。この異差を「学び合い」の授業は包み込み、補正してくれます。しかし、現在多くの通常学級では、これまでだと支援学級に所属していた子どもも交ざって学習しています。漢字などを文字情報として認識できない子、数の概念が弱く10まで位しか分からない子もいる学級が何千とあります。こうした学び合いの授業だけでこうした能力差を埋め合わせるのは容易な事ではありません。ここに「みんな」をかぶせること、「最低点」をかぶせるのはどだい無理なことです。そうした子どもがいる学級で全員が指導要領の内容を完全に履修することも不可能です。ならば、個人の能力の変化が分かりやすいドリルのようなものも取り入れていく必要もあると考えています。ステップの小さな学習は、どんなに下位の子どもでも伸びを実感できます。こうした有能感を持たせて、学び合いの場に取り込めばよいと考えています。もちろんこうしたことを「学び合い」で行う可能でしょう。しかし、残念ながら学校の時間は有限です。決められた時間の中で何をどこまで学ぶのか、教師は決断しなければなりません。
 
個々の子どもは幼ければ幼いほど先生の評価を求めます。「速くできるようになってきたね」「たくさん書けるようになってきたね」こうした言葉かけが、学び合いの授業の中で生きてきます。私は「学び続ける」子どもを育てたい。大人になっても。 
 
少なくとも私はそう考えています。